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ジヴァムクティヨガ
フォーカスオブザマンス

Jivamukti Yoga Focus of the month

【ENJOY THE SILENCE】2024.Feburary
沈黙を楽しむ

Gate gate paragate parasangate bodhi svāhā
消えて、消えて、真に消えて、極地さえも越える。最も崇高な智慧は全てが落ちて無くなった時に残る。
-伝統仏教より

「沈黙は発話よりも効果を成す。沈黙から思考が訪れ、思考からはエゴが、そしてエゴから発話が。それゆえ、もし発話が効果的であったら、根源の存在は果たしてどれだけの効果があるものか。
ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシの言葉に少しだけ浸る時に貴方を招待しましょう。目を閉じて、自身の内側を見つめてください。ほんの少しの間でいい。そのまま居て、貴方の沈黙の中に居ること。ラマナマハルシの言葉は「心の域」を見る入口、そして、至福、喜び、平和、妨げの無い現存である、ありのままの私たちへ通じる道である沈黙の探求への入口なのです。発話をやめることで、エゴを静め、思考を落ち着かせ、そして沈黙へと戻ることができます。
ならば、沈黙とは何か?外界のノイズからの解離か、発話の休息なのでしょうか?それとも、自分の注意を内側にシフトする能力、外界の刺激が薄れていきノイズと発話の中で静かに居られる能力なのでしょうか?そして、内側のノイズとは何か?たとえ完全に静かな空間で座っていても、マインドとマインドの注意は騒がしく、圧倒されていることもあります。
沈黙の中で座ることは簡単なことではありません。マインドはしょっちゅう色んな方向へ引っ張るし、違う道へと落とし入れます。ヨーガスートラ1章2でマスターパタンジャリが言うように「yogaḥ citta-vṛtti-nirodhaḥ 」ヨガはcitta(マインドの出来事)の中でのvritti(誤った自己解釈)を終わらせること、なのです。パドマジ(シャロン・ギャノン)がシェアしている彼女のコメントは「貴方の思考、マインドの変動が自己であるという認識を辞めた時にヨガがある。自己の認識、それはサマーディであり、幸福、至福、そしてエクスタシーなのです。」ヨガの練習は内側の沈黙を養うのに力強い道具として提供されています。見る者として座り、思考や発話の方向に引っ張られることなく、マインドが留まることを許すという練習ができたなら、その時に私たちはありのままの私たちを経験することが出来るのです。 沈黙は自己認識への導体です。私たちの思考やアイデンティティを越えて、私たちの至福の深淵へと深く潜る路を与え、私たちが誰なのかという真実を再発見するのです。マインドを観察することで私たちは自己の気付き、内観、そして私たちの真の性質への空間を創造するのです。
私は80年代後期にニューヨークで育ち、都会の環境からくる感覚的な刺激に継続的に囲まれていました。この継続的な刺激の流れの中で、反対の経験を提供する空間がありました。沈黙の気付きの避難、熟考と集中の為の場所。私の最初の沈黙の記憶は、10歳頃の変化する少年期の時でした。けれども私はさほど宗教的ではなく、着飾ることと奉仕の存在であることに熱心でした。私はこれらの中でも、その神聖な空間が毎回の奉仕の始まりの時にシーンと静かな事を最も楽しんでいました。それは瞬間的に穏やかで静かな、確かな平和を私にもたらしました。それは、よりマインドフルに、そしてはっきりとした感覚を育んでその空間を動き回ることを許容してくれるものでした。それは時間が存在しない場所でした。外側の沈黙は私の内側の沈黙を再現する空間を与えました。オルガンの音楽が始まり、教会が人で沢山になると、すぐに私の注意は沈黙から説法やその発想へシフトし、ここにエゴが私の体験を引き受けるのでした。その頃の私は、自身の平和の中に留まる術や、私の沈黙の経験を外界や内側のノイズに邪魔されないようにする術を持っていませんでした。ヨガの練習は、マインドで継続している活動を観ること、それらの活動が徐々に沈黙へと浸透していくのを観察すること、そして私自身を無空に、無空に、無空にすることを可能にしてきました。ギャテ ギャテ パラギャテ パラサンギャテ ボーディ スワハ。この祈りは仏教書として知られているHeart Sutraの最後に記されています。仏教哲学の要素において最も深い表現は無を表しています。ジヴァムクティチャントブックでは、次のような訳が呈されています。消えて、消えて、真に消えて、極地さえも越える。最も崇高な智慧は全てが落ちて無くなった時に残る。私たちの世界の見方は、私たちのマインドの投影、そして私たちの注目するものの投影でしかありません。私たちがマインドへの執着を手放したら、私たちは無を経験する事ができます。それは私たちの変わることの無いありのままの至福と現存、マインドの継続的な幻想からの解放、を観させてくれるのです。
沈黙の中で座る度に、私たちはマインドのノイズを薄めていく能力を培い、思考をほどいて行くことを許容し、そして観察者となるのです。沈黙により、私たちはマインドの中の静けさを養うことができ、これにより、練習が私たちのありのままを経験する場となるのです。沈黙は貴方の心の中の平和に耳を傾ける機会を、私たちの直観、存在の空間と、再び繋がることを与えてくれます。沈黙に深く没入することは、気付きと共に座る事から始まり、気付きと共に歩き、そして純粋な気づきの中でヨガアサナを行うことです。この沈黙と無空の広がりには、貴方のありのままの存在から貴方を引き抜く衝動の力も外界の邪魔もありません。この場所の表現を私たちはいくつももっています。無になる、沈黙になる、平和、喜び、幸福、至福、エクスタシーなどと続きます。事実、この場所は名前を持ちません。名前が無いのです。この場所を知ることは、貴方の真実であり、普遍で、常に在るのです。それは外界の世界が圧倒的に疲弊するような時に私たちの避難所となるのです。デペッシュ モードの有名な歌にはこうあります。「僕が欲しいものの全ては、僕が必要としているものの全ては、この僕の腕の中にある。言葉など必要ない。言葉には傷つけることしかできないんだ。」
沈黙を楽しんで。

本文:Juan Sierra 
和訳:Sami/神奈川

【THE SACRED RESOLUTION – SANKALPA】 2024. January 
神聖な決意: サンカルパ-
ॐ सर्वेषां स्वस्तिर्भवतु ।
सर्वेषां शान्तिर्भवतु ।
सर्वेषां पूर्णंभवतु ।
सर्वेषां मङ्गलंभवतु ।

OM 
Sarvesam svastir-bhavatu
Sarvesam shantir-bhavatu 
Sarvesam purnam-bhavatu
Sarvesam mangalam-bhavatu

オーム 
サルヴェーシャン スヴァスディーバヴァトゥ
サルヴェーシャンシャンティーバヴァトゥ
サルヴェーシャン プールナンバヴァトゥ
サルヴェーシャン マンガランバヴァトゥ

すべての存在が幸福を経験できますように
すべての存在が真の平和を感じられますように
すべての存在が"一つ(全体)"を経験できますように
そして、すべてのモノが良いこと、美しいことを経験できますように 
-ブラダーラニャカ ウパニシャッド

この時期は、私たちの多くが決意を強めねばと感じる時期であり、多くの場合、新年の抱負を立てる習慣があります。 "解決"という言葉は、ラテン語の resolvō (緩める、解凍する、再び溶かす) に由来しており、英語の"resolution" は、新年の決議、紛争解決、立法上の決議などの用語を表すのに使用されます。解決策は個人の価値観、願望、優先事項を反映することが多く、身体的健康の改善、マインドフルネスの育成、人間関係の取り決めを更に良くするなど、解決策は個人の価値観やその外面的に現れるものと一致する傾向があります。

ヴェーダ哲学では、この概念は私たちの本来持って生まれた強い性質 "サンカルパ" として知られる決意を育むことについて語っています。サンカルパという言葉は、"もたらす/決意"を意味するklṛpという語根に、"完全になる" を意味する接頭語samを繋げたものです。私たちの行動や思考の方向性を導く羅針盤として機能する神聖な決意や意図としてです。サンカルパはヨギーの精神的な願望と結びついています。これも意識的な取組みですが、"コミットメント(誓い)"との主な違いは、サンカルパはあなたはすでに幸せになるために、あるいは自分のダルマに到達するために必要な人物であるという根本的な前提から始まるということです。決意は突然根付くものではありません。それは私たちの宇宙の自己、アートマンとの調和を達したいという深く根付いた願望の御告げです。強大な木になる可能性を秘めた種子と同じように、私たちのサンカルパには発芽して私たちの最大の目的を明らかにする能力があります。

世界はいま困難な時期にあり常に苦しみがありますが、消費と切断のレベルにより、独特の注意力が欠如しています。母なる地球は、あらゆる種、肌の色、性別、信仰を持つ住民とともに、生と死、そしてその間一年中葛藤と闘っています。消費は無限ですが、資源には限りがあります。したがって、これを経済的にうまく機能させるには、私たちのものを管理し保護するためのルール、宗教、規制、法律、決議などを作成する必要があり、それが私たちをダルマから遠ざけます。マスター・パタンジャリは、私たちの自己実現に対するこれらの障害を、アヴィディヤ(無知・誤解)、アスミタ(エゴ)、ラーガ(情​​熱・執着)、ドヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェシャ(死に対する恐怖)という5つのクレシャとして説明しています。これらの障害は私たちが自身の目的を知ることを妨げる、内なる葛藤の根源です。

マハーバーラタは、揺るぎない決意と深い決意を持った戦士であるガンガーの息子ビーシュマの物語です。クルクシェートラ大戦では、矢が空を満たし、戦士たちが衝突する中、ビーシュマは矢の床に横たわって、この世を去るという自らの選択の瞬間を待っていました。彼がパーンダヴァ家とカウラヴァ家に深い知恵を授けたのはその時でした。彼のサンカルパ、厳粛な決意は、義務に対する彼の揺るぎない献身から生まれました。混乱の真っ只中、ビーシュマのサンカルパが戦場に響き渡り、耳を傾ける人々への導きの灯となりました。サンカルパは、ヨガスタジオや年始の静かな環境に限定されません。それは、相反する義務や道徳的ジレンマの喧噪の中で、人生の課題のるつぼの中で鍛えられます。ビーシュマの揺るぎない決意は、私たちも自らの原則をしっかりと定め、より高い基準を守るために意識的に取り組むことができることを教えてくれます。

では私たちが大切にしている原則とは何なのでしょうか? 人生の課題に直面したとき、私たちの行動を導く高次な目的とはいったい何でしょうか? 臨床心理学者でアドヴァイタ・ヴェーダーンタの学者でもあるリチャード・ミラー博士によると、サンカルパはそれを完全に実現するために必要なものがすべて揃った上でやって来ると言います。これには、イッチャ(途方もない意志とエネルギー)、クリヤー(行動)、そしてニャーナ(その行動を実現する方法の知恵)が含まれます。 "これらはすべて神の側面であり、私たちの中に生きているものです。真のサンカルパが入ってくると、私たちは神のこれら 3 つの性質を目覚めさせます。それをする意志がどこにあるのかを尋ねる必要はありません。エネルギーと意志はすでにそこにあるからです。サンカルパは、私たちが世界に対してどのような行動を取ろうとしているかを知らせてくれます。"

バガヴァットギーターの中でクリシュナは、私たちの行動を推進する力としてサンカルパの力について語っています。この領域において、サンカルパは単に特定のことをするかしないかという決断ではなく、私たちの最も神聖な意志として現れる、深く揺るぎない決意のことだと。
アーサナの実践と同様、人生のダンスは二面性に満ちています。喜びと悲しみ、成功と失敗、葛藤そして解決。サンカルパを発展させることは、執着や嫌悪に囚われることなくこれらの二元性を優雅に通り抜けるよう私たちを誘います。ヨギーは立ち直る力、知恵、そして広い心を持って人生の課題を乗り越えることを学びます。これが呼吸、動き、意識のビーズを繋ぐ糸となり、マインドフルネスな数珠を生み出します。シャロン・ギャノンはこう言います。"ヨガをすることはできません。ヨガはあなたの自然な状態です。あなたができることは、どこでヨガに抵抗しているかを明らかにする実践です。"

サンカルパはアイデアではなく、私たちを悟りの道に前進させる生きた、呼吸する力です。呼吸するたびに、私たちは今ここにいて目覚めているという決意を新たにすることができます。

本文: Hachi Yu /USA
和訳:Yuri OGAwa/京都

【ĪŚVARA PRAṆIDHĀNĀ】イシュヴァラ・プラニーダーナー2023.December
イシュヴァラ・プラニーダーナー

समाधिसिद्धिरीश्वरप्रणिधानात् 

サマーディシッディール イシュヴァラプラニダーナート
「イシュヴァラプラニダーナ=神への献身によって、サマディは実現する」
(ヨーガスートラ2章45節)
 
もしも人生で起こるすべての出来事、すれ違うすべての人々、ふいに持ち上がる問題が、生命の霊的な情報として歓迎する心で受け入れられるなら、人生は一体どんなものになるでしょう。もしも「生存・存在」という波に、繰り返しバランスを崩して投げ出されてしまうことなく、うまく波乗りできるなら、人生はどんなものになるでしょう。サマディとは人生のこうした出来事を完全に取り込んで吸収すること、生きることへの完全な信頼であり、それはヨガの主要な経典にはヨガのゴールとして明白に記録されていることでもあるのです。パタンジャリ師のヨガ・スートラに明示されているすべてのメソッドの中でも特に、この「イシュヴァラプラニダーナ」という、ヨガに向き合う姿勢についてのメソッドほど、簡潔に述べられているものは他にないほどです。「サマディシッディル イシュヴァラプラニダーナー」、「神への完全な献身によって、サマディを手にする」(2章45節)という意味です。
 
ジャングルの賢者パタンジャリ師は、何故、たったひとつのこのステップが、それほどまでに重要で効果的だと述べたのでしょうか。まずは「イシュヴァラ」という言葉を読み解いてみましょう。イシュヴァラは「シヴァ」を形容する通り名であり、それは「主(しゅ)」、「支配者」、「主(あるじ)」、「最高神」そして主観的な「神さま」を意味します。次の言葉「プラニダーナ」は二つの単語でできています。「プラナム」つまり「挨拶、お辞儀」、そして「ダナ」つまり「供物・お供え」です。そうすると「プラニダーナ」は「献身」「崇拝」「完全に手放し、身を任せること」「専心する」「没入する」という意味になります。この意味から、最高神に対して完全にゆだねることは、神聖なものとの同一性を認識するための直接的な手段だと考えられています。神聖な理想との、ある種のつながりが形成されて、自身の人生経験が「それ・そのすべて」(訳注:大文字のThat=存在そのもの、命、神、宇宙。Sri Nisargadatta Maharajiによる著書”I am That”のThatを指すと思われる)に捧げられるとき、完全なる自由と精神的光明というかたちで「満ち足りた豊かさ」との同一化・吸収が実現するのです。
 
では、一人のヨガ実践者として、神にすべてをゆだねて生きるにはどうすればよいのでしょうか。まず、誰かに身を任せたり、何かに身をゆだねるためには、その対象の物、または対象の人についての考えを持っておく必要があるでしょう。私達にはそれぞれ自分にとってのイシュタ・デヴァター(愛する神聖)が何なのか、ぼんやりした手掛かりとなる考えを持っていて、それに向かって歩んでいます。私たちは自分自身のセルフイメージよりもずっと理想的で永続的なある種の「力force」(訳注:「フォース」。映画Star Warsで表現されるような、見えないエネルギー)と皮膚感覚でつながりを感じています。それはまるで、移り変わる雲の向こうに空が永遠に続いていることを発見する感覚に似ています。雲は現れては、ぼんやり消えるものだけれども、いつだってより広大な何かに飲み込まれています。変わることのない広大な「フォース・力」を見つければ、それに信頼を寄せようと心に決めます。たぶんそれが「神」なのかもしれないし、「エネルギー」という人もいるだろうし、「覚醒」「生命」または「自然の知性」とも呼ぶのかもしれません。またはそれを具体的に姿や形あるものとして「クリシュナ」や、「ブッダ」「イエス」「ドゥルガ」に見出す人もいるだろうし、「フォース・力」を一本の木に見る人もいれば、自分が飼っている猫に見いだす人もいるかもしれません。自分が本当の意味でつながっているものが何なのか、感じてみてください。そしてその「つながり」をあなたの「理想の神聖性」へと深めてください。
 
さて、その「神聖性」が見つかったら、それに対して完全に身をゆだねてみましょう。「身をゆだねる、手放す(surrender)」というのはやっかいな言葉です、というのも私たちは自分を抑制する・抑えることばかりに取り憑かれたような社会に育てられてきたのですから。けれどここで言う「身をゆだねる、手放す」は自分自身の力を放棄することではありません。そうではなく、むしろ、もっと強固な力の源を認識すること、そしてそれを受け入れることです。高名なイスラム汎神論者のルーミーはこう書いています、「自分自身の力以外に力なし」と。身をゆだねるためには、神秘的な磁力で引き寄せられるような信頼・確信が必要です。それはまるで恋に落ちる経験に似ています。どんな力が、どうして、私たちの心を引き寄せるのかは分らなくとも、それでも引き寄せる力に従うことを、私たちは疑いもなく切望するものです。これこそが、「理性・頭で考えること(mind)」を「こころ・核心(heart)」に移して据える修練であり、個人が持っている知性を普遍的な理解へと戻していくことなのです。こうして身をゆだねて手放すことで、私たちの命の中心にあると感じるものに対して「つながり」が深まり、自分の内側にも外側にも湧き上がってくる物事に対して、それが何であれ理解して従うようになるのです。どうして良いことや悪いことが身に降りかかるのか、意識して知ることができない場面でも、すべては神様の思し召し・明示として必要なものなのだと信じることができます。状況に逆らうのではなく、逆らおうと抑制する力を開放して、状況の流れに沿ってみるのです。そうすることが、「身をまかせる(surrendering)」ことを通して集中する、という不断の瞑想的なプロセスとなります。「理性・頭で考えること(mind)」を「こころ・核心(heart)」に据える修練は、宇宙と直接的に繋がる手段であり、その宇宙は、私たちが生命の力強さと遭遇できるように、いつだってそこにいてくれます。
「理想の神聖性」と繋がってしまえば、自分は他者と分断された存在だという誤った幻想を解くことになります。 それは例えれば、赤い染料の一滴を澄み切った青い海に混ぜるようなものです。広大な海は染料の作り出す色など、即座に飲み込んでしまいます。私たちの精神に何が沸き上がってきても、さらに、どんな精神状態にあっても、それを「無限の神」の理想像へのお供え物にできるのです。美しい感情も、悲しみも、この「最高神」とのつながりを大きく成長させるための、優れた栄養剤となるのです。「ナラダバクティスートラ」の(訳注:バクティの教えを説いたヒンドゥのテキスト)65節には 「すべての行為を『神』の前に聖別する、ということは、つまり、肉欲や怒り、プライドなどのネガティブな感情さえも『神』に捧げることである」と書いてあります。捧げものにすることで、自分の経験は(どんなものでも)神聖なものとして明らかにすること(隠さないこと)です。いずれ時が来れば、たいていの考え(特に、自分というアイデンティティの「染料・色」を強調するために利用してきた考え)は、ただ単に自分と広大な海(至高の幸福という海)との間に障壁を積み上げていただけなのだ、と気づくのです。こうして、神の放つ光に心が集中したとき、光は自分に中に注がれ、その結果、自分の中にあった根強い恐怖心や、自分に押し付けてきた限界・縛りが溶けてなくなるのです。
 
このように、自身の考え方に固執する傾向が焼き消され、強固だった孤立感が溶けてなくなると、私たちは再びはっきりと、正確にものを見るようになります。それはまるで、自分に合っていなかった眼鏡を、やっとはずしたときの感覚に似ています。合わない眼鏡を脱ぎ捨てると決めたとき、その瞬間に明瞭な視界が目に入ってくるのです。このような精神的光明の状態になれば、「すべては神聖な神が完璧に放ち出してくださったものだ、すべては神聖なのだ」ということに、もはや何の疑いもないでしょう。私たちの内側にも外側にも起こるあらゆる出来事が、神の思し召し・明示であると認識することができるし、受け取った明示を、その源(神)にお返しとしてささげることもできるようになるのです。こうしたことが理解できると、自分の目の前に現れたこの人も同じように、完全なる思し召し・明示の一部なのだと理解できるようになります。「イシュヴァラ・プラティヤビジュニャ・カーリカ」(訳注:インド哲学者・神学者のウトゥパラデヴァによる教本)の4章11節にはこう記してあります、「エカグラタ(一面的なものの見方)で構成されたメンタルを手放すことで、人は次第に神聖な視点に立ったものの見方を取り入れて実行する」と。
このように、私たちは「人生の波」には大海原がいつもそこにあり、本来の私たちは限界や制限のない永遠の存在なのだということを、大いなる喜びで理解するのです。私たちが本当の意味で実現する「神聖性との一体感・融合」は、私たちのスヴァルパ(姿・形・物質原理の性質)へ流れ込み、純粋で、根源的で、エネルギーに覚醒したものになるのです。そこには、自己を証明するアイデンティティや人生経験がもたらすような、キズやシミなどひとつもなく、生まれることもない、死ぬこともない、汚れひとつさえもありません。
(エッセイ著:コナー・ビアンヌ)

本文:by Conor Byrnes 

和訳:Rei/宮崎

【SVĀDHYĀYA – SELF-STUDY REMEMBERING WHO YOU REALLY ARE】2023.November
スヴァディヤーヤ(SVĀDHYĀYA) ーあなたが本当に誰であるかを思い出す自己学習

Oṁ
sītā rāma sitā rāma
sītā rāma sitā rāma
Sita and Rama, may you be victorious.

オーム
シータ、ラーマ
シータ、ラーマ
シータとラーマ、あなたに勝利がありますように。

スヴァディヤーヤ(Svādhyāya)とは、文字通り自分自身の探求、自己学習、または「今なる状況においても気を散らすことなく至高の自己に集中すること」を意味します。”これはパタンジャリの4番目のニヤマであり、「すべきこと」であり、パタンジャリの唱える8支則の第2段階です。私たちほぼ全員は、最終的に自己を解放し、自分自身の本質を体験できる場所へ到達するために、努力と練習をしなければなりません。私達は本当は誰なのか。この努力がスヴァーディヤーヤです。
wise heartという本の冒頭に素晴らしい物語があります。タイの古都スコタイの北にある大きな寺院にはかつて巨大な古代の石像の仏像が建っていました。ひどい嵐、政権の交代、略奪軍が来たり去ったりしましたが、仏像は耐えました。ある日、寺院の手入れをしていた僧侶らが、像がひび割れていることに気づきました。特に乾燥した暑い日が続いた後、亀裂の一つが非常に広くなったため、好奇心旺盛な僧侶が懐中電灯を手に取り、中を覗いてみました。彼に戻ってきた輝きは、輝く黄金の閃光でした!この何の変哲もない古い像の中に、僧侶たちはこれまでに作られたものの中で最大かつ最も輝く黄金の仏像を発見したのです。仏像は、紛争や不安な時代に仏像を守るために石膏と粘土で覆われていました。同様に、私たちも脅威的な状況に遭遇すると、自分自身を守り、自分自身の本質を覆いたくなることがあります。しかし、私たちの生来の気高さは、たとえどんなに隠そうとしても、輝きを現したいと思っています。では、私たちはどうやって本当の自分を思い出しますか?
ティーチャトレーニング以来ずっと私の心に残っているのは、「ヨギは急進的で実践的である』ということを思い足させてくれるシャロンの声です。物事の根本に迫りたいので急進的であり。それを行う方法を知りたいので実践的です。
スヴァディーヤーヤは、経典の経験を通した自己の研究と訳されることが多いです。経典は私たちが自分自身の本質を見るための鏡を立てています。「見るものにとって、全てのものはまさに真我となった。その一体性を見る者には、どんな妄想、どんな悲しみがありえるだろうか?」イシャ・ウパニシャッド。これらの古代の文書や現存している著作を研究すると、他の人々がこの道で私たちよりも前にやって来たこと、そして私たちの本質的な性質を経験することは今でも可能であることを思い出させてくれます。B.K.Sアイアンガーが雄弁に言ったように、「スヴァディーヤーヤを練習している人は自分の人生の本を読み、同時にそれを書いて修正します。彼の人生観には変化が見られ。彼は全ての創造物は楽しみ(ボーガ・bhoga)のためではなく、貢献(献身・バクティ・bhakti)のためにあること、全ての創造物は神聖であることと、自分自身の中に神性があり、自分を動かすエネルギーは全宇宙を動かすものと同じであることに気づき始めます。」
しかし、根本的にヨガの実践は経典の学習だけでなく、自己学習の一つの形態です。それらは私たちに本当の自分を明らかにします。私たちは精神(spirit)であり、魂(soul)であり、大文字のSをもつ自己(Self)です。もしくはジョン・コルトレーンが経験したことを私達に音楽を通して共有したように、私たちは一つの至高の愛なのです。これを垣間見たことがなければ、おそらくこの経典を読んでいないでしょう。では、どうやって記憶するのでしょうか。私たちはどうすれは本当の自分の根源に辿り着くことができるのでしょうか?私たちは様々なヨガの実践を通じて自分自身を学び、それによって私達の真の性質を明らかになります。
ニサルガダッタ・マハラジは言いました。「心は深い淵をつくり、心はそれを渡る」チャンティングは恥、裏切り、罪悪感、痛みや怒りなどの感情が埋もれている心の奥深くにある暗い隅に入るのに役立ちます。それはまた、私達の心の本来の喜びの能力を思い出させます。最終的に、それは私達に真我と再統合したいという願望を明らかにします。私にとってチャンティングは最も効果的な練習でした。
身体的な練習は私たちを自身の体と再びつけ、潜在的な痛みや、感じる痛み、そして最終的には衰退や死に至る可能性のある体に執着しすぎないように助けます。たとえ、ボトックスをどれだけ投与しても、体の老化を回避することはできません。
瞑想は、自分の思考が単なる自分の思考であることを思い出すのに役立ちます。そして、うわ…そこは地雷原のようです。平均的な人は1日に約1,200〜60,000回の思考を行うことがわかっています。これら何千もの思考のうち、80%はネガティブなもので、そのうち95%は前日と全く同じ反復的な思考です。
そして、これらの実践は私たちが誰であるかの根源に連れ戻します。私たちの生い立ち、性別、肌の色、私たちがどれほど成功しているかではなく、これらすべての層の下に私たちが誰であるか。私たちは自分たちが精神(スピリット)であること、そして海のように広大な容量を持った心を持ち、そこに避難できることを思い出します。もっとよく言えば、「オーム シュリ クリシュナ シャラナム ママ」(Om Shri Krishna Sharanam Mama)です。思い出せば思い出すほど、自分自身や他者に対する愛ある優しさを経験します(たとえそれが骨の折れるようなゆっくりしたものであっても!)。私たちが自分の本当の性質を知らなければ、外部からの正当性を求めていき詰まってしまう可能性があり、これは危険な事です。必然的に、自分が誰であるかを思い出すと、私たちはできる限りの方法で行動し、他の存在を高揚させたいと思うようになります。オープンで優しい心こそが世界を変える力を持っているのです。私たちはロカ・サマスタ・スキノ・バヴァントゥ(Lokah Samastah Sukhino Bhavantu)を体現し始めます。
本文:MANIZEH RIME
和訳:長田藍子/福岡

【TAPAS-THE GIFT OF SIMPLICITY】2023.October
タパス: シンプルであることのギフト-

kāyedriya-siddhir aśuddhi-kṣayāt tapasaḥ 
カイェンドァリヤー シッディーアシュッディークシャヤット タパサ

Through tapas, practice and self-discipline, there is the perfection of the body and senses.

タパス(実践、自己鍛錬)を通じて身体と感覚は完成する。
-ヨーガ スートラ2章43番

何年も前、私は巡礼に行くことに決めました。道のりはとても長く、すべて徒歩でしたし、思い通りになることはほとんどありませんでした。毎朝目が覚めると、頭の中で家に帰りたい理由がたくさん思い浮かんだことを覚えています。過酷な道、寮にいる溢れんばりの人、疲労感、私が旅のために置いてきたもの、巡礼から帰った後私を待ち受けていることへの全てのプレッシャーは耐え難いものでした。日に日に旅のシンプリシティー(シンプルさ)が私の支えとなっていきました。様々な色に変わる夜明けの美しさ、心地よい雨の音、他の巡礼者たちの静かな微笑み。何か目標を達成することが重要ではなくて、あらゆる困難にもかかわらず、この旅が与えてくれた貴重でシンプルなひと時を味わうことが私がにとって重要でした。

パタンジャリのニヤマ(ヨギーの自分自身に対する振舞い)の 3 番目は "タパス" といい、伝統的に "禁欲"または "規律" と訳されます。タパスという言葉は、"燃やす" を意味するサンスクリット語の動詞"tap"という語根に由来しており、パタンジャリのヨガ スートラの第 2 章の最初の節の言葉として登場します。
tapaḥ-svādhyāyeśvara-praṇidhānāni kriyā-yogaḥ (PYS 2.1)
私たちは "自分の考え、言葉、行為を浄化するために必要な規律をすべて受け入れるという情熱的で燃えるような野望"を持たなければなりません。"
https://shop.jivamuktiyoga.com/collections/books-1/products/eternity-is-happening-now-volume-one 
-シャロン・ギャノン著
『Eternity Is Happening Now』参照
ヨギーとして、私たちは自分自身の実践という名の火で調理をしなければならないのです。

私たちの心は"厳格 (austerity)"という言葉に否定的な意味を付ける傾向があります。ヨーガにおける"厳格さ"とは、シンプリシティー(シンプルであること)、幸せになるためには自分が本当は何者であるかを知ること以外には何も必要ないという真実を受け入れることを意味します。自分を幸せにしてくれると思う外側のものを常に求めずにシンプルな生活を送ることで、私たちの心はより現実に集中し、集中できるようになります。特定の目標を達成するために特定のものが必要であると信じれば信じるほど、私たちはその対象に依存するようになります。シンプルになればなるほど、より自由を感じることができます。シンプリシティーとタパスを通じて、精神的そして肉体的レベルでの浄化に必要な熱を生み出します。シンプリシティーは体を強くし、心を落ち着かせて集中させます。

人生には常に逆境が存在し、私たちの心は練習しない理由をたくさん見つけようとするでしょう。"天気が良い日だけ実践する"者でいたいという誘惑がすぐそこまで来ています。しかしタパスとは、逆境に直面しても実践を続ける能力のこと。タパスは何かを明らかにし、私たちの能力を引き出します。スートラ2章43 番に記載されているように、私たちの実践を維持する能力から大きな力は生まれます。ヨガ的観点から見ると、タパスを実践する理由は、不純物のベールを取り除き、私たちの本質を認識するためです。 "スピリチュアルな実践は、困難な状況の中でも私たちを変化させ、私たちの中にある利己心を焼き払う炎を灯すものであるべきです。"
https://shop.jivamuktiyoga.com/collections/books-1/products/jivamukti-yoga-practices-for-liberating-body-and-soul
-シャロン・ギャノン& デビッド・ライフ著
『ジヴァムクティ・ヨガ』第9章より抜粋

タパスとマニプラチャクラは両方とも "変容" の要素である火の要素(アグニ)に関連しています。変化を起こすために意識的な決断をして課題を受け入れるとき、私たちは変化を経験することができます。コンフォートゾーンの外に出て、人生に身を委ねることは、自分自身についてもっと学ぶ成長の瞬間となり得ます。物事が簡単すぎると、私たちがより思いやりがあり、より柔らかく、根拠のある人間になるための人生の教えを学ぶのがより困難になります。私たちが長期間にわたって一貫して実践すれば、精神的および肉体的な実践はタパス的になります。毎日時間を見つけてやる。いつどこでどのくらいの時間するのかは関係ありません、やるということが非常に重要なのです。ヨガマットの上でのタパスとは、マットを広げて練習することを意味し、アーサナ、プラナヤーマ、瞑想、あるいはただ座って日記を書くことでさえも可能です。たとえ何であれ、毎日練習することは、"思いだす"というありがたいギフトです。詩人のルーミは次のように言います。
"あなたは定期的に自分自身を振り返ることに費やしていますか?今すぐ始めよう。"

本文:アレクサンドラ・コロンボ
和訳: ユリオガワ

【SANTOSHA – THE STATE WHERE YOU ARE MISSING NOTHING】2023.September
サントーシャ:何ひとつ欠けていないと思える心の状態
 
santoṣād anuttamaḥ sukha-lābhaḥ 
サントーシャード アヌッタマハ スッカ ラーバハ
サントーシャ=心の安らぎを実現することで、ほかに比類のないほどの幸福を手にする
(ヨガスートラ2章42節)
 
「ほかに比類のないほどの幸福」だなんて、ちょっと考えてみてください。あまりにも幸福で、これまでに感じてきたあらゆる幸福をしのぐほどの幸福、ということです。それって、すごいと思いませんか? 人として生きるこの現世で、そんな幸せを経験することができるのでしょうか?
 
何かについて幸せだなと感じるとき、多くの場合、その幸せが永遠に続くものではないということを私たちはわかっています。その瞬間、起きている物事について、どれほど幸せな気分であっても、どれほどの満足感を得ていても、その感覚はいずれすり減って薄くなり、私達はまた新しい喜びを探し求めようとするものです。このように、人が喜びを求めたり、不快なものに対してしり込みしてしまうことが、人の苦悩する主な原因であるというのが、多くのスピリチュアルな伝承において一致している考え方です。感覚的な満足感や、外側からの刺激的な状況がもたらしてくれるような「ふつうの」幸せは、まさにそのハッピーな感覚がそもそも一時的な性質によって引き起こされたものなので、決して長続きするものではありません。では、いったいどうすれば本当の意味で長く続く幸福を見つけ出せるのでしょう?
 
パタンジャリ師は、スートラ2章32節で述べているニヤマのうちの2番目として、サントーシャの実践を私たちに教えています。サンスクリット語で「サントーシャ」は英語に直すと「本当の満足感(real contentment)」といったような意味になります。「サントーシャ」の最初の語(接頭辞)である「サン(sam)」は「完全に」とか「全体的に」といった意味で、「トーシャ」はその語源の「トゥス(tus)」から「安らぎ」「満足」または「受容すること」を意味します。ニヤマは道徳的な行為または奨励される習慣のことですが、というのも衛生的で健康的な生活を営むということが、ひいては自分自身との関係性をよりポジティブなものにするからなのです。ほかにも、ニヤマとは、シャロン・ギャノン師の表現でいうなら、「ヤマ」を「してはいけないこと」と言うのに対して、「ニヤマ」は「するべきこと」とも言えます。習慣という行為について大事なことは、それが規則的に行うことをベースにしていることです。なので、ニヤマの実践から本当の利益を得るためには、私たちの日常のルーティーンの一部としてニヤマの教えを日々の生活に取り入れて行うことが重要なのです。
 
「サントーシャ」を理解する方法のひとつを、ヒンドゥ神話の物語から得ることができます。ヒンドゥの神話に出てくる「サントーシャ」は、ダルマ神と女神トゥシュティの間に生まれる息子として擬人化されています。「ダルマ」とは、サンスクリット語の「ドゥル」が語源で「包括するもの」の意味なので、「義務」や「法」、「智慧を拠り所として生きること」と定義されます。「トゥシュティ」は「満ち足りていること・安らぎ」の意味があります。 これにより理解できるのは、「サントーシャ」が智慧や義務をベースにしてこそ得ることのできる「満足・安らぎ」の体験であり、決して表面的なレベルで起きる出来事に「いい気分だ」と感じるようなものではないことがわかります。ダルマとは宇宙的な存在の基本原理ですから、その性質からしてそもそも不動で安定しているので、サントーシャはつまり「安定的な幸福感」を意味するのです。それは常に変化し続ける性質のもの(一般的なハッピーな感覚)とは別物なのです。
 
ヒンドゥの経典「ヨガ・ヴァシシュタ」によれば、「幸福・満足」は4人の兵士の一人であり、その兵士たちは「悟り・解脱=モクシャ」の入り口の門番をしています(ちなみに「幸福・満足」以外の三人の兵士たちは「忍耐」、「自己探求」そして「賢者たちとの結びつき」)。なので、「悟り・解脱」に到達するためには、まず最初に「幸福・満足」と繋がらなければならないのです。多くの場合「悟り・解脱」の状態は「梵我一如(oneness of being)」と表現されます。そしてその状態で経験するのは、真我との一体感です。小さい自我、個別の自己意識(ego self)として自分をみなす認識とは異なります。私たちの先生にとっての師であるシュリ・ブラフマナンダ・サラスワティ師は、かつてこう述べています。「ヨガとは何も欠けたところや足りないものがない状態、すべてが完全で完結しており、OKな感覚、甘い桃の果汁の海に浸っている感覚である」。
 
時をかけて継続的に何かを習練するとき、その修練実践はどんどん深まり、そうなってようやく結果が実を結び始めるものです。ヨガスートラ2章42節によると、「サントーシャ」を絶え間なく習練すれば、その結果として得るのが至高の比類のない幸福である(anuttamah sukha アヌッタマ スッカ)と述べられています。「幸福・満足」はどうやったら練習・実践できるのでしょう?それは、強いこだわりのある渇望や欲望のない心を育むこと、欲なんかではなく内なる平和を探し求めることにフォーカスすることです。それは、 世界をあるがまま受け入れて、いますでに自分のものとして持っているものごとに感謝することです。それは、いつも何かを「もっと」とか、すでに持っているのにそれ以上に「ほかにも」欲しいなどと思うことを手放すことです。こうした習練は、また別のヨガの実践で、スートラの1双12節に「ヴァイライギャ」と呼ばれているプラクティス(“abhyāsa-vairāgyabhyāṁ tannirodaḥ”アビャサ ヴァイラギャビァム タンニローダハ)と密接に関係しており、バガヴァッドギータのメイントピックの一つでもあります。こうした考え方に沿って考えると、落ち着きのない心を静めるキーになるのは執着のない心、または世俗的なモノ・コトへの関心から離れることにあるのです。 ゆっくりとですが私たちも気が付き始めています、幸福の源は私たちの内側にあって、外側からつかんで持ってくるようなものではないということを。「幸福・満足」は内側から、外側へと発展していくものです。エドウィン・ブライアント氏(インド言語学者)はその著書「パタンジャリのヨガスートラ(‘The Yoga Sutras of Patanjali’)」のなかでこう述べています。「この世界にある楽しみのうち、どんな幸福感も、あるいは天空界にあるそれ以上に素晴らしい幸福感も、欲望を断つことで得られる幸福感の16分の1にも及ばないものだ。」
 本文:カミラ・ヴィーンCamilla Veen 
 和訳:Rei Miho Ueda/宮崎

【Saucha - Our Mother: The Earth】2023.Augusut
サウチャー私たちの母:地球

शौच संतोष तपः स्वाध्यायेश्वरप्रणिधानानि नियमाः ॥३२॥​ 
śauca-saṃtoṣa-tapaḥ-svādhyāyeśvara-praṇidhānāni niyamāḥ

五つのニヤマ(Niyama)とは、
1. サウチャー(Saucha)  清潔さ(शौच)
2. サントーシャー(Santosha)  知足(संतोष)
3. ターパー(Tapah)  自己の鍛錬(तपः)
4. スワダーヤ(Svadhyaya)  自己探求(स्वाध्याय)
5. イシュワラプラニダーナ(Ishvara-Pranidhana)  神への帰依(ईश्वरप्रणिधान)

―これらはアシュタンガ・ヨーガの二番目のステップであり、ルールとなります。
~シャロン・ギャノンによる翻訳(ヨーガ・スートラ2章32節)


ヨガは瞑想的な実践です。異なるアイデアや概念を使い、より大きな真実に向かって進みます。サウチャ(清潔さ)とは、ヨーガ・スートラのマスターパタンジャリによる編纂に現れるニヤマ(規律)の最初の要素です。サウチャを正確に理解するために、自然界を参考にすることができます。たとえば、きれいに流れる川沿いを歩いていて、重力に引かれて流れる澄み切った水に内在する静けさと純粋さを観察したことがあるかもしれません。水は川底を流れる間に自然に浄化され、地球のミネラルや栄養素と混ざり合います。また、キャンプファイヤーのそばに座り、星空の下で残り火がゆっくりと丸太を炭に変えるのを見たことがあるかもしれません。火は燃えて破壊されるが、その灰は土を肥沃にし、生産的にします。この自己回復のエネルギーの流れは、私たちもその一部である自然界の再生能力を示してくれます。アルバート・アインシュタインは「人間は全体の一部であり、その全体を宇宙と呼んでいる」と言いました。私たち自身を自然のリズムとより調和させることはサウチャを理解する手助けとなるでしょう。


私たちの生物学は、惑星の延長として表現されています。私たちの免疫システムは、多様な自然環境に触れることで最適に機能します。土で遊んだり、森を歩いたり、これらはロマンチックに聞こえるかもしれませんし、実際にはそうですが、私たちが日常的に行っていることのような親しみを感じるものでもあるはずです。そして、私たちが避けたり、決して時間を作られなかったりするものではありません。あなたと地球の生物多様性が一つであることを認識することは、アイデンティティの変化にほかなりません。
ティック・ナット・ハン氏の「私たちとこの星は「共生」している」と言う言葉は有名です。それはつまり、地球がなければ人間も存在しないという意味です。地球との関係を理解することで、私たち人間は直接の経験を通じて自己を超えることができます。私たちが呼吸する空気、飲む水、食べる食べ物、それらなくして私たちは「存在」できません。地球を正しく愛することを学ぶことで、サウチャに対する多くの洞察が生まれるでしょう。


私たちが飲む水は、私たちの心と体に深い影響を与えます。人間の体は毎秒370億以上の生化学反応を行っており、それらのすべてが水に依存しています。しかし、研究によれば、人々の75%が慢性的に脱水状態にあることがわかっていると同時に、世界中の製造産業が水質を汚染し、きれいな水へのアクセスを損なっています。私たちの体を大切にするためには、きれいで高品質な水をたっぷりと飲むことが不可欠であり、また、私たちが地球の管理者として、水が永遠に清潔で透明であることを確保する義務とも手を取り合っています。世界中の先住民族は、水との神聖なつながりを大事にしており、私たちもそれを見習うべきです。私たちは、比喩的にも物理的にも、水の神聖さとのつながりを浄化する方法を学ぶべきです。

健康な体は健康な心を支えます。肉体の健康と活力は、地球上の生命体にとって常に進化する要件と戦うために、新しく革新的なアイデアを生み出すためのプラットフォームとなります。私たちは、体が地球上で何百万年もの適応を経て進化した有機的な生物であることを理解すべきです。これらの適応は、母なる地球の庭で行われました。太陽によって暖かく保たれる庭です。健康な身体をサポートする最もシンプルな方法の一つは、日光です。ビタミンDは細胞の再生プロセスに不可欠であり、日光を浴びることで体内で生成されます。温かい太陽の光は、私たちの体と心を浄化するのに役立ちます。


世界の恵まれない人々は、私たちが社会に必要な調整を迅速かつ効率的に実行できることを願っています。 自分たちが優れており、「生命全体」から切り離されているという妄想が、私たちを孤立させ、無味乾燥にしてしまう原因なのです。 和解は今日からで始めることができます。 心と目を養い、人生のあらゆる要素において多様性を見つけ出し、大切にしてください。 自然の過程について学び、知識を獲得し、人類を「全体」に再統合する方向へのバランスを取るよう努めてください。自然と調和した状態に到達したときにのみ、私たちの清浄さは確保されるのです。


本文: Mitch Burnett   
翻訳:Heeki Park/福岡市

【APARIGRAHA-THE FIFTH YAMA IN PATANJALI'S YOGA SUTRA】2023.July
アパリグラハーパタンジャリヨガスートラのヤマの5番目
aparigraha-sthairye janma-kathantā-sambodhaḥ
ヨーギがアパリグラハを確立すると、非所有性、過去、現在、未来、そして人生の「方法」と「理由」に関する知識が実現されます。PYS2-39



アパリグラハとは、贈り物を受け取らないこと、溜め込まないこと、貪欲から自由であること、思考の硬直性から自由であること、物の見方や意見への執着から自由であることを意味します。
良い意味で、把握は寛大さや感謝、満足感、敬意の実践に置き換えられます。
sthairyeは着実さや安定、この実践に完全に信頼していることです。

アメリカでは、家族の主な祝日の 1 つに感謝祭があります。ネイティブアメリカンにとって、この日はヨーロッパ人入植者の到着と、その後の虐殺と強制移住を記念するものであり、国家追悼の日となっています。
感謝祭の後には、クリスマスまで続くショッピング狂乱の初日であるブラックフライデーが続きます。皮肉なことに、この日はネイティブ アメリカン文化遺産の日と重なっています。 「感謝を捧げる」とは、豊かな収穫や、当たり前のことだと思いがちなその他の贈り物に対する感謝の気持ちを抱くことが大切です。
しかし、多くの人にとって感謝祭は大食いの日となっており、4,600万羽の七面鳥の虐殺は無視されています。貪欲さは、ネイティブアメリカンの豊かな文化的、精神的伝統の記憶を覆い隠しながら、大衆を大量に操作することによってさらに刺激していきます。
最初の植民者たちの貪欲さは今や催眠術のように進化し、先住民の土地を侵害し続けながら人々や生態系よりも利益を優先し、この地球上の生命そのものを脅かしています。
ヤマとは、自分自身を他の存在と調和させるための抑制を意味します。
アパリグラハは 5 番目のヤマとして、前の 4 つと深く絡み合っています。
ほとんどの戦争や暴力の原因は貪欲さです。
貪欲は偽善、嘘、詐欺をもたらします。
貪欲は生息地の窃盗につながり、1億人の強制移住と6度目の大量絶滅の原因となっています。
貪欲はまた、多くの性的違法行為、特に人身売買、性奴隷制、畜産の原因にもなります。
グローバル社会の指針となる原則として、アパリグラハを意識的に実践することは、大規模なパラダイム転換を引き起こし、他のヤマを回復する可能性を秘めています。
それは持続可能性を目指す先住民の習慣と調和しています。ネイティブ アメリカンの伝統では、人のライフスタイルは次の7世代の幸福を考慮することです。

あらゆる精神的伝統は、シンプルな生活が啓発と精神的実現の実践に役立つことを認識しています。修道院やアシュラムの僧侶や尼僧は、通常、同じローブを数枚しか持っていません。食べ物や施しのために物乞いのボウルを使用する人もいます。食事は最小限のもの、ベジタリアンまたはビーガンのものが多いです。多くの人はエゴを最小限に抑えるために頭を剃り、ほとんどがカルマヨガに従事します。
アーサナと瞑想の実践はシンプルさが重要です。必要なのはマット、体、心、そして呼吸だけです。
毎日、私達は外側の雑念や執着心や貪欲な傾向を手放すために休憩を取ります。私たちは、何も欠けていない状態に到達するために必要な広がりを許可させます。 

スートラ2章39節で、マハリシ・パタンジャリは、アパリグラハの実践が最終的に私たちが生まれた理由を明らかにすると示唆しています。それは過去、現在、未来の誕生を理解するだけでなく、私たちの人生の真の目的も理解します。


本文:YOGESWARI/スイス・カンボジア
和訳:Chiemi Sora 空 智英美

【BRAHMACHARYA AND VEGANISM】2023.June
ブラフマチャーリヤとヴィーガニズム

ブラフマチャーリヤ プラティシュターヤム
ヴィルヤラバハ

ヨギーがブラフマチャーリヤ確立すれば、自制心、スピリチュアルな強さ、活力が得られる
-パタンジャリのヨーガ・スートラ2章38番

パタンジャリはヨーガ・スートラの中で、私たちが悟りを得たい場合、他者にどのように接すべきかについて5つのヤマを推奨しています。 4番目のヤマはブラフマチャーリヤと言い、これは「性の創造力を尊重し、他者を性的に操作したり乱用しないこと」を意味します。ブラフマチャーリヤは神へと近づく方法、つまり宇宙の創造的な本質に達するための方法です。それは「禁欲」あるいは「貞操」と訳されることもあり、このヤマの実践方法に関して多くの誤解を招いています。ブラフマチャーリヤを実践することは全ての肉体的および心理的な力の本質である性的エネルギーの可能性を理解することです。

性的エネルギーが適切に向けられれば、それは他者との分離、他者性を超越する手段になります。しかし性的エネルギーが他者を搾取したり、操作したり、屈辱を与えたりするために使用されると、それは私たちをより根深い分離と無知(アヴィディヤ)へと駆り立てます。人間はいつも決まって農場で閉じ込めている他の生き物に対してこのようなことを行っています。動物への性的虐待は私たちの文化に深く根付いており、それは繁殖、遺伝子操作、去勢、人工授精、雌動物の強制妊娠とその子供への虐待に現れており、これらは全ての動物畜産業のカテゴリーに分類され、アグリビジネスにおいては正常かつ日常的なことであると考えられています。

工場農場の動物たちは、同種の動物と通常の性的関係を築くことができません。閉じ込められた動物のほとんどは、同種の異性を見ることさえありません。工場農場で生まれた全ての動物たちは、人間の手によって性的暴行を受け、人工授精された母親から生まれています。今日の農場ではレイプが日常的に行われているということです。母親は生殖能力が衰えるまで繰り返し妊娠することを強いられ、生殖能力が衰えた時点で屠殺され、食べられます。精子の提供者として選ばれた雄動物は繰り返し性的虐待を受け、常にフラストレーションを抱えながら暮らし、最終的には同様に屠殺されます。このような行いは暴力的で荒々しく、動物たちにとって品位を傷つけられるものであるだけでなく、この仕事で賃金をもらっている農場労働者にとっても人間性を奪うものです。これらの動物たちが日常的に性的虐待を受けている様子は、私たちが自然界や命の美しさ、奇跡からいかに切り離されているかを明らかにしています。

アニマルライツはフェミニストの問題とみなされます。なぜなら、私たちが女性の権利を信じているなら、雌動物が乳、卵、赤ちゃんのためにアグリビジネスによって搾取されることを容認したり支持したりすることはできないからです。女性は公平に扱われるべきだと私たちが感じるのであれば、人種、宗教、種族に関係なく、女性解放の願いを全ての女性に広げなければなりません。ヨガは、私たちが他者に対して行うことは、最終的には自分自身に対して行われることを教えてくれます。もし私たちが他の種の女性の権利を尊重しないなら、どうやって人間の女性を無事に解放できるというのでしょうか?

恐らく私たちのほとんどは他者を性的に虐待すれば、自身の健康や満足のいく性生活を楽しむ能力に影響を与える可能性があるという考えを容易に受け入れることができるかもしれません。しかし、その考えを他の動物にも拡張することを考えた人はいったい何人いるでしょうか? ビーガンになることは、全ての存在にとってより健康で、幸せで、創造的な世界に貢献することです。アニマルライツ活動家に対して批判的で、「世界中でこれほど多くの人的被害が起きているのに、どうやって動物虐待にも目を向けたらいいのか?」と疑問に思う人もいるかもしれません。私はそのような質問に対して、苦しみの根本的な原因に迫ろうとしていると指摘して答えることがよくあります。私たちが他者に対して行うことは、最終的には必然的に自分自身に対しても行うことになります。その観点から見れば、人類におけるレイプ、児童虐待、離婚、病気の増加や、世界中で食用として飼育されている何十億もの動物におけるレイプ、児童虐待、家族崩壊、病気の蔓延との間には多くの相関関係があることがわかります。今日私たちは他者の幸福を犠牲にして自分自身の幸福を受け取ることを望むことはできません。

肉や乳製品の摂取は自尊心の低下という病状です。どちらの行いもよりセクシーに、より若く、より健康で、より強いと感じるためには、他の動物を支配し、虐待し、搾取し、食べなければならないという誤った概念から生じています。実際はその逆です。肉や乳製品を長期的に摂取すると、心臓病、無気力、脳卒中、癌など様々な健康上の問題が生じる可能性があります。パタンジャリはブラフマチャーリヤを確立した人、つまりセクシュアリティに対して敬意を持って扱う人には、健康と活力がもたらされるとはっきりと教えてくれています。
ブラフマチャーリヤの実践を受け入れることは、動物の家畜化に依存している私たちの文化の基盤に挑戦することです。私たちがヴィーガニズムとブラフマチャーリヤについて語るとき、間違いなくそれは本質的な性革命について話していることになります。

〈参考文献〉
Eternity Is Happening Now Vol.1 & 2
-by Sharon Gannon

本文: シャロン・ギャノン
和訳:Yuri OGAwa (小川友里)

【ASTEYA – HOW TO TRULY BECOME RICH】2023.May
アステヤ–真に豊かになる方法

अस्तेयप्रतिष्ठायां सर्वरत्नोपस्थानम्
asteya-pratiṣṭhāyāṃ sarva-ratnopasthānam

ヨギが、アステヤ=不盗、の中で定まる時、全てにおける繁栄が現実化する。
パタンジャリ ヨガスートラ 2.37
他者から盗むことをやめた時に繁栄(物質、精神、魂)が現れる。
ーシャロン·ギャノン


 全ての中にある尊さを知る方法として、パタンジャリは不盗の練習を5つのヤマのうちの1つに揚げています。ratnaという言葉は宝石という意味で、繁栄を示しています。自己に属していないものを他者から引き離して取り込もうとするのを辞めるとratnaが現れます。これは、他者に対して制限することとして提案されている5つの行為の1つです。ヨガ、欠如しているものは何もない状態、を求める者の為に、そうすることをブラフマナンダ サラスワティは述べているのです。
アステヤを含む1番直接的な方法の1つはヴィーガン生活です。これは、さらなる努力をしなくても毎日何度も出来る最も簡単な方法の1つなのです。お店では、本来子牛の為である乳製品売場へ行く代わりにプラントベースのものの売場へ行くこともその1つです。卵を食べる代わりに、ひよこ豆やレンティルあるいはキヌアなどの自分に必要なタンパク質を数えきれないほどの選択肢から選ぶことが出来ます。それはヒヨコが卵から孵るのを助け、雌鶏が押し込まれている金属のカゴから(卵が)滑り落ちるのを実際に助けていることになるのです。シャロンギャノンのYoga and Veganismの本を読むことでヴィガニズムがどのようにヨガの方法となるのかをもっと知ることができます。
本の文章や発言を引用して他者の働きについて言及することは、自分の現在に居ることであり、アステヤを実行する素晴らしい機会です。時折、私たちは他の存在から学ぶことを心から楽しみます。触発されて、その世界の全てをしりたくなるのでしょう。私たちはこれらのアイディアを拡散していく為にワークショップをしたりトレーニングを開催したりするのです。私たちはそれらと共にやってきたと信じる罠にはまって、愛する先生たちを参照したり引用したりすることをある段階でやめてしまうかもしれません。私たちは何かの偉大な創造主だから知的な泥棒になるということを暗示しているのです。パタンジャリによると、この自己への吸収という小さな方法である行為は本当の富を何もたらさないと言っています。あなたの先生たちとその教えに感謝するのです。それらを、他者と共有する道具やアイディアの源と捉えると、最終的に異なる次元の豊かさの出現は避けられないのです。これは、言葉をコピーしたり復唱したりすることだけを意味するのではなく、あなた自身が常にあなたが存在している物体の源への感謝で満たされ、そうして、不可欠な光があなたを照らす者と生徒達へと通じていくのです。

本文:モーリツ・ウルリッヒ/ベルリン
和訳:Sami Araki/鎌倉・逗子・葉山

【Satya—Lead me from the unreal to the real】2023.April
サティア(真実・誠実):私を偽りから真実へと導く
 
「サティア プラティシュターヤーム クリイヤー パラーシュラヤットゥヴァム」
(ヨギがサティア=誠実性に安定するとき、そのヨギは自分の行為の成果を労苦することなく獲得する)(*ヨガスートラ2:36)
 
パタンジャリ師が言うには、ひとつの事物を見るとき、見る人(プルシャ)と見られる対象物(プラクルティ)との間に、分析力あるブレない知識(ヴィヴェカキャーテ)を養おうとするならば、マインドの浄化が必須です。ヨガの八支則を実践することで、マインドの不浄(クレシャ)は焼失されます。
 
サティア=真実・誠実とは、ヴィヤーサ(*マハーバーラタの著者とされる聖人)の定義によると、その人の「言葉・言論」とその「心・思考・マインド」とが現実に一致していることであり、これは八支則の第一の規則であるヤマ(ヤマーハ)=「抑制・規制」、つまりモラル的にもスピリチュアル的な視点からもするべきではないとして、慎むべき項目に該当します。
 
もしも、故意に偽りを語ると、いったい何が起きるでしょう?何らかの個人的な利益のために、現実を隠し事実を歪曲してまでも、ほかの誰かのマインドを操作しようとするでしょう。自分の計画に沿ったストーリー、つまり事実とは異なるストーリーを信じ込ませようとほかの人をだまそうとしますが、その小さな嘘が、何年もかけて築き上げてきた信頼関係をどれだけ台無しにしてしまうのか、たいていの人はすっかり見落としています。ヨギならば、何が真実であるのかを知ろうと一生懸命になるものです。その場合の真実とは、究極の真実のことであり、それによってこそ完全なる自由がもたらされるのです。何が真実であるのかを知りたいと望む気持ちが強いからこそ、真実・真理に対する完全なリスペクトと愛がそこにあり、だからこそ個人的な利益なんかのために人の心を操作するなどというのは、ヨギである彼・彼女が求めているものとは完全に真逆に対立することなのです。
 
真実・誠実とは、ちょうど後に続くそのほかのヤマの項目をプラクティスするのと同じように、ヨギが一点のシミもないほどに製錬するために、そして非暴力(アヒムサ)を完璧にするために、実践によって行うものです。そのため、その人の言葉・言論は、すべての生きとし生けるものの利益となるように、という思いで責任をもって発言すべきなのです。ヴィヤーサが述べているように、誰かを傷つけるような言葉・言論は真実・誠実ではないし、だからといって、善い行いや善意を模倣するだけでは心に闇を引き入れる結果を招くだけです。たとえ話をするならば、禁欲な生活を送っている人がいるとして、その人の厳格な言動は「真実・誠実」が中心にあるので、もし盗賊たちに「いま金持ちのキャラバン(一族)が通過したが、彼らはどこに向かっていったのか?」と尋ねられたら、盗賊たちにキャラバンが向かった方角を正直に伝えてしまうでしょう。こうしたことは、パタンジャリ師によるならば、「真実・誠実」とは考えられない行為なのです、というのも誰かに害が及ぶ結果を招くからです。自分がこれから言おうとすることに多少でも疑問を感じたら、自問することです、「これは真実なのか?」「これは親切なことなのか?」「これは必要なことなのか?」と。瞑想のリトリートでは多くの場合、あえて高潔に沈黙することを実践(プラクティス)します。それは、これから瞑想の修練を積もうとする人が、その修練コースの初めに心に決めたサティアの誓いや教えを破らないようにするため、という理由からではありません。私たちが何か話すとき、出来事を誇張したり、話を面白くするために大げさに盛ったりする、などというのは容易に起こりうるものです。そんなことは私たち皆がやったことがあるでしょう。けれど、もしあなたが本当にしっかりと真実に根付いていたいと望むなら、ただ単に話を誇張することさえも現実の歪曲になってしまうのです。
 
パタンジャリ師はスートラの2章36節で「真実に根付いている人の行為は即座にその結果を得るし、また成功を結実する」と述べています。そのような人は物事を見るとき真実にあるがまま見るし、そこには現実に対する完全な理解があるからこそ、その人の行動はより現実的なのです。そのような人は信用に値するし、信頼できます。
 
そこで、こんな疑問がわいてきます、「どうすれば自分が言っていることが真実だと確信できるのだろう?」と。ヴィヤーサによると、私たちの言葉・言論は、ヨガスートラ1章7節に述べられている「重要で確実な知識を得る3つの源(みなもと)」に合致しているべきだと説明しています。その3つとは、①直接的な認知(直接に見る、聞く、など私たちの五感知覚によって得る知識)と、②推論から得られる結論(推理法・論法を使って得る知識)と、そして③適格な資質を持った人物による証言や経典から得る知識、の3つです。ということは、情報が正確であると検証されたのか、真実であると証明されたものであるのか、を確認するのは私たちの責任なのです。私たちの生きる現代社会では、毎日受け取る情報のほとんどが直接自分で認知・確認したものでもないし、きちんと推論されたものでもないし、ましてや権威ある適格者からの情報でもありません。むしろ情報のほとんどはSNSなどソーシャルメディアとかニュース番組などから得ているので、私たちは常にそれらの情報源が信頼できるものであるだろう、という考えに基づいて、自分が信じる事象や意見を述べたり、それを誰かとシェアしたりしているけれど、そうした情報の多くは、ある種のイデオロギーによって偏見があったり、矛盾があったりして、情報を手にする大勢の一般の人たちの考え方・態度を巧みにごまかそうという計画的な情報であったりするため、ある人にとっては利益になって豊かになるのに、そのほかの人にとってはそうではないというような結果をもたらしています。たとえばミルク瓶のラベルに、緑の草原で草をはむ牛のイメージが貼ってあったりすると、「こうして乳牛たちは暮らしているのね」と誤って信じ込んでしまいます。現代という時代にいる私たちは、何が真実で、何が真実でないのか、識別するのが難しくなってきています。ヨギのマインドでいる、ということは、調査官のようなマインドでいる、ということです。調査官のマインドとは、現状に疑問を抱いたり、それぞれの文化で何の疑いもなく再生と模倣を繰り返してきている事柄や、間違って信じ込んでいること、などを解消しようと努めるようなマインドでいることです。
 
真実とは客観的で、誰にとっても同じものとして、そこに存在する≪ある≫ものです。信念・信条(*個人が何を信じるか)とは本質的に主観的なもので、作られていくものでもあり、ゆえに変化もします。そのことを踏まえて、信念・信条における違いに向き合うときは、寛容であるのがベストです。自分自身の信条・信念も、そして他の誰かの現時点での信条・信念も、真実に基づいていないかもしれないのだから、そうした話題に対しては、より深い調査・精査をするような心がけを持って、寛容な精神で親切な会話をするのがベストな行動の道筋なのです。いかなる相対的な真実(*「絶対的」の反対語としての「相対的」)も、部分的・不完全な真実(*「完全な」の反対語としての「部分的・不完全」)でしかないのだ、ということを心にとどめておくことが謙虚な姿勢であるといえるでしょう。
 
ラマナ・マハルシ師(*南インドのヒンドゥ聖者)はこう言っています、「世界は幻想的なものだ、ただブラフマンだけが本物・真実だ。世界はブラフマンだ」。そして彼に言わせると、沈黙はもっとも雄弁な言葉・言論なのです。こうした考え方においては、時間と空間は相対的なものにすぎず、マヤ=幻想を作り出すツールでしかないとみなさています。「すべての別離・乖離、あらゆるタイプの疎外や孤立は虚構である。あなたが人として存在しているのは、時間と空間の幻想によるものだ。マインドは時間と空間の概念を作り出し、自身が作り出したその概念を現実だと思い込んでいる。」とはニサルガダッタ・マハラジ師(*インドの非二元論の教祖)の言葉です。本物・真実とはいったい何でしょう。その疑問に対する答えを見つけるために、私たちは今ここにいます。
(*は訳注)
著:オルガ・オスコルビナ/バルセロナ 
訳 : Rei/宮崎

【AHIṂSĀ】2023.March
アヒムサー

यमनियमासिप्राणायामप्रत्याहारधारणाध्यािसमाधयोऽष्टावङ्गानि ॥ २.२९॥
Yama-niyamāsana-prāṇāyāma-pratyāhāra-dhāraṇā-dhyāna-samādhayo’ṣṭāvaṅgāni
ヤマ、ニヤマ、プラナヤーマ、プラティヤハーラ、ダーラナ、ディヤナ、サマダヨ、スタヴァンガニ

アシュタンガ・ヨガは、八支則として、パタンジャリ氏によって説明されています。
1 ヤマ – 自制
2 ニヤマ – 遵守
3 アーサナ – 坐法
4 プラーナヤーマ – 呼吸の制御
5 プラティヤーハーラ – 感覚の撤退
6 ダーラナ – 集中力
7 ディヤーナ – 瞑想
8 サマーディ – ヨガの恍惚
    ~ シャロン・ギャノンによる翻訳(PYS 2.29)

アヒムサは、言葉では言い表せない意識状態であるとされる悟りへと導く実践です。しかし、「広々とした」「照らされた」「真実を伝える」「自己の心の渦と同一視しない」「八支則の最終段階であるサマーディ」といった言葉やフレーズがしばしば使われます。言い表せないものを表現する方法がたくさんあることは素晴らしいことです。
アヒムサは、悟りに至るマハリシ・パタンジャリのアシュタンガ・ヨガ・システムの最初の段階であるヤマの5つの項目の中の最初のステップです。これは、はじめの一歩の第一歩です。すべてのステップが重要であり、システムとして連動していますが、その順序を学ぶこと、最初に何が来るか、最後に何が来るか、その前後に何が来るかなどを研究することは目からウロコの落ちることです。
‘アヒムサ’とは、害を与えないことを意味します。’ヒムサ’とは、害を与えることで、前にある短い ‘ア’は、その後に続くものとは対照的、それを否定すると言う意味を持ちます。

アヒムサは、他者に害を与えないという強い願いと、その願いに従って行動する実践の両方です。時間が経つにつれて、願いは深まり、表現する能力も拡大します。ヤマはまた、自己と他者の関係を扱う「双子」を意味します。この実践は、他者に害を与えないように自制することです。パタンジャリのアシュタンガ・ヨガシステムの第二の段階はニヤマであり、自己との非害とポジティブな関係を育む5つの実践から成り立っています。自分自身に害を与えるとは、その行動を外に向けて投影することでもあるため、ある意味でニヤマがヤマの基礎を形成すると言えます。パタンジャリのヨガシステムでは、ヤマが最初の支則として来るが、最初の2つ(ヤマとニヤマ)の支則は共に働き、バランスを生み出します。ベタな言い方かもしれないが、自分自身の友達であることは、他者の友達でいるための鍵と言えるでしょう。

アヒムサは、時に「愛と思いやり」と訳され、否定的ではなく肯定的に解釈されます。 控えるのではなく、やるべきことですが、その言葉自体を心に留め、それによって私たちがどのように害を及ぼすかを熟考することは良いことです。
責任を持つことはあらゆる種類のスピリチュアルな実践において非常に重要なことです。その他にどのように自分自身を知り、向き合うことができるのでしょうか?自分自身に責任を持たせることが、自由と変革への道を開くのです。

私たちは多くのやり方で害を与えてしまうことがあります。自分たちの足跡がどのようになるかを考えると、圧倒されてしまいます。そのため、ヨガの実践者にとって興味深いのは、自分が引き起こす害を最小限に抑えることです。これは終わりがない実践であり、ビーガニズム、活動主義、意識的な消費行動、送信ボタンを押す前に何度も下書きを書き直すことなど、様々な形を取ることができます。この実践は、個人的な練習として静かに調和しながら生きることもでもあれば、公の場で教師やリーダーになることでもあります。それは愛と感謝のエネルギーを放射する生き方を育み、荒々しい雰囲気を溶かすことができます。それは思考、言葉、行動に含まれます。あなたがどのように実践を受け入れたとしても、他の誰かがあなたのためにそれを行うことも、あなたから奪うこともできません。それはあなた自身のものであり、継続的なものです。自分が大切にしている人たちや身近な人たちから始めるかもしれませんが、その実践は、好きでもなく、特に気にかけていない人たちや嫌いな人たちを含め、限定されることはありません。時には感情的に反撃したくなることがあるかもしれないが、実践によって必要な時間と空間と心の変化が提供され、より穏やかで自然な状態に戻ることができます。時には、自分たちが愛を与えられる余裕がないように感じるかもしれないが、少なくとも自分自身の中で、害を与えたくないという気持ちを見つけることができます。
この実践によって、平和的な方法で浮き沈みなどの問題を解決するための潜在能力を発見し、ますますそれを引き出したいと思うようになります。それは宗教的な実践でも、特定のグループに属するものでもありません。また、学術的な側面や信仰の要素を欠くものでもありません。それは、神を直接目にするための道、またはすべての人々に神を見るための道です。

時には何もしないことが最善の策です。カナダの環境保護活動家であり、シー・シェパードの創始者としても知られるポール・ワトソンは、私たちが海から魚を釣ったり、有毒廃棄物を海に投棄したりせずに、海を放っておけば、50年以内に多くの死にかけている植物や動物種が再生するでしょうとしばしば語ります。同様に、嫌なことを言わずに控えることで、思いがけない素晴らしいサプライズが起こるかもしれません。

著: ルース・ローラ・マネンティ
訳: Heeki/福岡市

【SĀDHANA PĀDA】2023.February
サーダナパーダ

tapaḥ-svādhyāyeśvara-praṇidhānāni kriyā-yogaḥ (PYS 2.1)Self-discipline (Tapah), self-study (Svadhyaya), and surrender to the divine (Ishvara- Pranidhana) are Kriya-Yoga.

自己規律(タパ)、自己探求(スワディヤーヤ)、そして神への降伏(イシュワラプラニダーナ)はクリヤヨガである。~英訳:マノラマ~

大いなる自己への途切れない探求への切望の火によって貴方は活かされていなければなりません。それは、この瞬間に居ることを唯一可能にすることであり、この努力に自分自身を完全に捧げることなのです。これらはヨガを体得するための行いなのです。~シャロン・ギャノンの言葉~

パタンジャリのヨガスートラ第2章では、マインドに落ち着きが無く、気が散っている者がマインドを集中させた状態を得る意味を述べています。宇宙意識との統一と一致は、自己中心的な者、規律の無い者、浄化されていない者には成し得ないのです。
-シュリ ブラフマナンダ サラスワティ

ヨガは「神との統一」を意味します。バガヴァン(婆伽梵)との統一は努力だけで得られるものでは無く、神の恩寵を通してのみ得られるのです。存在しているものは全て神であり、全ては神であるので存在するのです。絶対的な感覚の中ではバガヴァンから解離しているものはありません。全てが神の神聖な振舞いなのです。サムサーラ(輪廻転生)からの解放を獲得しようとするなら、それはバガヴァンからの贈り物としてのみ叶うのです。与えるも与えないも全てが神の意志なのです。
ヨガの道には2つあります(マルガス)。マルヤダマルガは「法則の道」です。ヨギはゴールへの到達へ向けて規律を利用し自己努力をします。そして、プシュティマルガは「優美な道」です。ヨギは神の意志に降伏します。このどちらの道も練習者を解放への道の入口まで案内するのみです。最終的にそして優雅に最後の境界線を越える所へ奉仕者を運んでくれるのはバガヴァンなのです。ヨガを「する」ことは出来ません。ヨガとは本来の姿であるあなたなのです。ヨガは努力だけを通して体得することは出来ないのです。それは優美に生じるのです。しかしながら、優美は規律に沿った多大な努力を通してマインドが浄化された後にのみ生じ得るのです。あなたはあなたの努力をして、後は神に行わせるのです。
パタンジャリはヨガスートラの1章、サマーディパーダ、の中でヨガはマインドが浄化されて集中された時に努力することなく生じるものであると述べることで彼の講話を開きました。つまり、ヨガス チッタ-ヴリッティ-ニローダハ(パタンジャリヨガスートラ1章2)己の思考、マインドの変動、との同一視を辞めた時、その時にそこにはヨガがあり、大いなる自己、バガヴァンとの一致であり、それがサマーディであると。パタンジャリによると、ニローダハあるいはヨガに最も直接的に持ち込む方法は神に完全に降伏するということです。ニローダハは「神に吸収されること」なのです。パタンジャリは1章の中で、ヨガを体得する1ステップの方法を与えています。イーシュワラ-プラニダーナドゥヴァ、あなたの人生とアイデンティティを神に捧げることで、あなたは神のアイデンティティを得て、それはあなたが神を知るということなのです、と。ある魂は、その過去のカルマによって、サマーディパーダで述べられているように完全に降伏する道に従うことが出来るかもしれません。サットサンガやキルタン、ジャパあるいはセヴァのような優美なサーダナスを通して「手放し、神に行わせる」ことによって、人は献身の人生を生きることが出来ます。ヴァーバを培い、神への愛に酔いしれた状態です。ただし、優美な道は全ての人の為では無いのです。2章、サーダナパーダ、実践の章、の中でパタンジャリは3ステップの方法を述べています。タパハ-スワーディヤーイェスワラ-プラにダーナーニ クリヤー-ヨガハ(パタンジャリヨガスートラ2章1)。ここで彼は、まだ神に全てを捧げられない者がニローダハを可能にするマインドの浄化と集中についての実践的な意味を示しています。ある人は何かを「行う」ことが不可欠だと感じ、またある人のマインドは落ち着きがなく、疑い深く、そして簡単に気が散ってしまいます。このような熱望者たちはサーダナパーダの中に慰めを見つけることが可能です。神の恩寵のみに自身を捧げられない魂たちの為の慈愛をパタンジャリは持っています。そして、より詳しいサーダナを全章で説明しているのです。
章は、志願するヨギに、努力が不可欠であるだけでなく、ある意味努力のようなものとは関係がない、ということを示すことから始まっています。タパスの意味は「燃やす」ことです。私たちは情熱的でなければいけません。規律が何であれ不可欠であり、思考、言葉、行いを浄化する経験の為に熱望を燃やすのです。私たちが、あらゆる自己保護、自我的な言動、自己中心的な欲求の全てを手放した時、私たちはスワディヤーヤ、大いなる自己の学びに集中できるのです。スワディヤーヤの意味は「あらゆる状況においても気を散らすことなく至高の自身に集中すること」です。何かを学ぶという事は、そのことに揺るぎない注意を向けるという事です。これらの2つのクリヤ(タパスとスワディヤーヤ)は、浄化し、神への降伏を可能にさせます。イーシュワラプラニダーナと言われる3ステップ法のうちの3つ目はクリヤヨガとして知られています。そしてパタンジャリは、この3ステップの案を練習者が尊守するのを困難にする邪魔なものについて記しています。 彼は、障害が生じ得るカルマの根底にあるものに沿って、これらのクレーシャについて挙げて説明しています。彼は既に3ステップの案と同様に1ステップまでも提示していますが、辛抱強い我慢が必要と思われることから、パタンジャリは、私たちをしがみつけるドゥッカ(苦悩)から解かれる為に、もっと「どのようにして」という指示がまだ必要な人の為に、8ステップの案(アシュタンガヨガ)を提示しています。私たちの多くが、私たちの不幸の原因が他者の言動にあると感じるため、8ステップの計画はヤマス(禁戒)から始まります。5つのヤマスは他者との関係性について述べています。最初のヤマは、私たちが神ではなく他者と知覚する限り、相手と相互作用する時はいつでも、彼らを傷つける原因になるべきではない、つまり優しさを持って他者に接するべきであると示しています。他のヤマスは、他者に嘘をつかない、他者から盗まない、性的に他者を苦しめない、貯めこまない(私たちが持っているものを他者と共有すること)。ニヤマス(勧戒)は8支則の2番目のステップです。ニヤマスは、私たちの個人的な世界に向けて示された5つの練習です。それは、サウチャ(清浄)、サントーシャ(充足)、タパス(規律)、スワディヤーヤ(大いなる自己の研究)、そしてイーシュワラプラニダーナ(神への献身)です。3番目のアサナは、この世においての私たちの肉体的な存在への取り組みです。私たちの地球との関係性は相互に有益で在るべきだとパタンジャリは提示しています。その関係は安定していて、喜びと共にあるべきなのです。4番目は生命の力、プラーナに焦点を当てています。それは全ての生命に浸透する目に見えない力です。私たちの体内でどのようにプラーナを方向づけるかを学ぶことは、私たちのマインドをどのようにしてコントロールするかを学ぶことであり、そうすることで、神聖な陶酔から何かがマインドを制御しているとしても私たちのマインドを解放し始めるのです。5番目はプラティヤハーラです。外へと向かいたがる感覚を引き戻すことで私たちの注意を内面へと方向づけ直して、独立した方向へ、神聖な自己に依存する方向へ向かう規律です。 これらの練習を通して、私たちのマインドの中身はより一層浄化され始め、最後の3ステップを構成するもっと内面への方向づけ、繊細さ、伝統、瞑想的な練習の準備をするのです。
第2章のサーダナパーダには、8支則の全てが挙げられています。しかし最初の5つのみが説明されています。サーダナパーダではプラティヤハーラの練習を含んでいます。そしてパタンジャリは第3章を始めます(ビブーティパーダ)。最後の3ステップです。ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)そしてサマーディ(頂天への到達)です。サーダナパーダで説明されている様々な練習が習得された時、熱望者はマインドの妨害の制御を成し遂げる事が可能となり、現実の智慧を、探り、得る事が可能となるのです。彼らは、最後の3ステップへ着手する準備ができていて、ついにはサムヤマ(3ステップの融合)の練習を受け入れるのです。最終章である第4章(カイヴァリヤパーダ)は、ヨガの喜びに満ちた状態の説明とサーダナパーダで多くの努力を伴う練習がどのように説明されたかで結論付けられます。また同様に、行為者であることの考えと熱望者がバガヴァンから乖離したような状態でさえ恩寵の中へと融解されるのです。

著:シャロン・ギャノン
和訳:Sami Araki/鎌倉・逗子・葉山

シャロンギャノンの著書 Eternity is Happening Nowより引用
Eternity is Happening Now – Volume One – Jivamukti Shop EU (jivamuktiyoga.com)
Eternity is Happening Now – Volume two – Jivamukti Shop EU (jivamuktiyoga.com)

【Intention】2023.January
意図

Lokah Samastah Sukhino Bhavantu

人生において行動の結果を決定づけるのは、その背後にある意図です。意図は、あなたがしたいこと、または行うことを計画していること、つまり目標を持った目的と定義できます。意図的に何かを行うということは、目的をもって何かを行うこと、意識的に行動することを意味します。ジヴァムクティヨガではクラスの最初に先生が生徒に実践の意図を定めるよう求めます。目的を持って行動し、意識的に呼吸と自身の行動を個々に、そして集合的にヨガのゴール (自己への気づき)へと結び付けるために。

シャロン・ギャノンが言うように、「あなたはヨガをすることはできない。ヨガはあなたそのもの、あなたの自然な状態のこと。あなたがすることは、その自然な状態に抵抗するのは何なのかを明らかにすることだけ」です。私たちの実践の動機は、最初から明確でなければなりません。この実践は本当は何のためにあるのだろう?神聖な自己との繋がりを目指し、ヨガへの希望を育んでいるだろうか?実践が私たちが関わる全てのものの中に神を見いだす可能性を発展させてくれるものだろうか?意図は、思いやり、優しさ、愛することを育むのに役立ちます。

ジヴァムクティヨガの伝統では、次の誓いのマントラを唱えることで意図を定めます。「ロカ サマスタ スキノ バヴァントゥ」生きとし生けるもの全てが平和で自由でありますように。私の思考や発する言葉、行動が何らかの形で他者の幸福と自由のためになりますように。私たちの思考はリハーサル(予行練習)があっての行動です。私たちが他者のことを考え、彼らに向けて自らの行動を捧げる時、それは私たちの小さなエゴな自己から抜け出し、他者を中心とした意識を発達させます。これは他者という認識が消え、全ての存在は一つであるということが見える、ヨガへの一歩です。これが悟りです。このマントラを繰り返すことで、その背後にある意図が私たちの生活の中でより強くなります。

スワミ・ニルマラナンダは、シャロンとデビッドにこの強力なマントラを教えました。動物と鳥のさえずりに囲まれたアシュラムで、彼はアッシジの聖フランチェスコのように暮らしました。彼は、アヒムサ、つまり全ての生き物に対する非暴力を実践するという意図を具現化する者でした。彼は、メランコリーで抑揚のあるマントラを唱えるようよく言ったものでした。「神の名を唱える時はそれを思い焦がれるよう歌わなければならない、悲しみに触れるような声で唱えることは良いことだ」と。マントラを唱える時、私たちの先生そして伝統を通して彼の存在は生き続けています。

サンスクリット語の "antu" は「このようにさせてください」という意味です。大叙事詩マハーバーラタのシビ王は、この誓約を非常に真剣に受け止めました。彼は誠実さ、正義、意図を持つ王として知られていました。シビ王は毎日マントラを唱え、王国に住む全ての生き物を守ることを誓いました。ある日美しい小さなハトが恐怖で震えながら宮殿の窓に飛び込んできました。 「親愛なる王様、どうか私を守って下さい」「私を殺そうとする恐ろしいハヤブサに追われています」とハトは言いました。ハトは王様のひざに隠れました。王はハトの呼吸がとても速いのを感じました。 「恐れることははない、親愛なるものよ」「リラックスして落ち着きたまえ。あなたの羽1本ですら触れさせないから。」彼が王位に就いた時に立てた意図は、弱者が強者に搾取されることを決して許さないことでした。人間だけでなく、木、鳥、そして全ての動物が彼の保護を必要としていました。突然ハヤブサが窓から飛び込んできて、王の前に舞い降りました。 「王様、あなたは私の獲物を隠しました。私はお腹がすいています、食べなければなりません」。王はどうしていいかわかりませんでした。彼は全ての存在を守ることを誓ったからです。彼はジレンマに直面していました。ハトを守るということは、ハヤブサから獲物を奪うということになります。彼は他の動物のように菜食主義者ではありませんでした。シビ王は少し考えてから、廷臣の一人に計りを持ってくるように頼みました。彼はハトに、体重を計るために計りにのっても構わないかと尋ねました。ハトはとても小さく繊細で、体重は数グラムしかありませんでした。「ハトの代わりに私の体の一部を食べ​​て下さい」と彼はハヤブサに言いました。それで、彼は太ももの一部を切り取り、それを計りの上に置きました。計りのバランスをとるのに十分な重さがなかったため、彼は別の部位を切り取りましたが、それでも計りのバランスが取れませんでした。王は体の一部を切り続けましたが、やはりバランスが取れませんでした。瀕死の状態で血を流しながら王はハヤブサに近づき、「私はあなたにこの身を捧げよう。私の全てを持っていきなさい」と言いました。その瞬間、インドラ神がシビ王の前に現れました。 「あなたは偉大な王だ。あなたは本当に自分が意図することを言い、あなたはあなたが言っていることそのものだ」彼は王の体を元に戻し、王は王国全ての存在を守り続けました。

あなたが愛する人、あるいは人生に苦しんでいる人に、あなた自身の実践を捧げて下さい。心の目ではっきりと観ながら、クラスの間中それらのことを思います。クラスの間中それらに集中するということは、自分自身のことや自身の問題のことをしばらく考えることをやめる、ということです。あなたの師の解放と幸福ために努めて下さい。自身のサーダナ(意図のあるスピリチュアルな実践)で彼らがうまくいくことを願うことは、あなたの考えと実践を高めるもう1つの方法です。崇高な意図がなければ、反芻し自分自身のことだけを考える傾向が強くなり、私たちをAvidya(アヴィディヤ)= 無知、誤解へと導きます。私たちはヨガのゴールに興味があるのか、それとも身体を鍛えることに興味があるのでしょうか?意図のないアサナの実践は、あなたをより強く、より健康にはするでしょうが、あなたをヨガそのものへと導くことはないでしょう。

私たちが自身のエネルギーと焦点に注意を向けるものは何でも、そこへと向けられます。向上したいという私たちの意図について、マスター・パタンジャリは準備ができている人たちに次のアドバイスを与えます – Yoga Sutra 1章23番 " īśvara pranidhānād vā. 自身のアイデンティティーを神に差し出すことによって、あなたは神のアイデンティティーを得ます。全てのエネルギーと感情がその一つの目標に向けられるように、心を神に向け、自分の行動を捧げること。パタンジャリは、神を知るための直接的な道としてバクティ ヨガを提案しています。実践中に出てくるネガティブなな考えや感情を俯瞰することができ、エネルギーの向きが変わります。私たちは目指している意図によって解放され、浄化されるために、自身を縛っているものを手放します。私たちの思いと心は、日常生活の中で他者に対する感情のことで悩まされることがよくあります。 「私をあなたの意志のための道具にしてください。私のものではなく、あなたのものにしてください。私を怒り、嫉妬、恐れから解放してください。私の心を喜びと思いやりで満たしてください」
ムーラダーラから来る恐れ、スワディシュターナからの嫉妬、マニピュラからの怒りを感じた後、心臓アナハタ チャクラ-愛を持って全ての行動を神に捧げる場所に向かって移動します。自身の魂であるアートマンを思い出す時、神の存在が感じられます。私たちは神の道具となり、その経験を通して真我アートマ・ジュニャーナの知識を発展させます。

バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナはアルジュナに、行動から得た結果は何であれ放棄し、あきらめるべきだと説明します。これは、私たちが何かをすることを計画したり、意識的に行動することを目指すべきではないという意味ではありません。これから起こりうることに動機づけられるのではなく、意図を自ら賢明に選び、その意図を信じるのです。ヨギーは、全ての存在の幸福のために努力し、他者の生活を向上させるように行動するものなのだから。

著者: アンドレア・クウィアトコゥスキ
訳: 小川友里 (Yuri OGAwa)

【CHAKRAS】2022.December 
  チャクラ   
 
Suddhim-eti yada sarva nadi-cakram malakulam  
tadaiva jayate yogi prana-samgrahane ksamah 
シュッディメティ ヤダー サルヴァ ナーディカクラム マラークラム 
タダイヴァ ジャーイヤテ ヨギ プラーナ サムグラハネ クシャマハ 
不浄に満ちたナディとチャクラのすべてが浄化されるときヨギはプラーナを獲得できる 
ハタヨガプラディピカ2章5節 
 
「利己的な自意識を超越したいという衝動は、魂の根源的な渇望である」 
—オルダス・ハクスリー 
 
サンスクリット語でチャクラとは「車輪・歯車」を意味します。車輪は転がり、回り、その円形サイクルの動きによって人を旅に連れ出してくれます。この場合の「旅」とは、時間と空間のうちに起こるので、だからこそ様々な出来事に満ちているわけですが、ときに旅人を時空の限界を超えたところまで駆り立てることもあります。ところで、この場合の「旅人」とはいったい誰のことなのでしょう。「意識」がこの「旅人」なのです。サンスクリット語でクンダリーニとは「とぐろを巻いた蛇」を意味しますが、それがこの「意識」に当てはまります。一人ひとりの「魂」は(英小文字で表す)jivaですが、その「魂(jiva)」が霊的な進化を遂げるのは、「意識」が知覚や認識の扉であるチャクラを開いてそこから旅に出るときに起きるのです。 
 
クンダリーニは人生の経験を得て、眠りから目覚め、休眠状態から動き出します。経験を得たいという欲求は「魂」を駆り立てるのです。ちょうど火炎の輝きのように、「魂」の旅は上へと昇っていきます。「魂」はいつでも意識を超越する(superconsciousness:スーパーコンシャスネス・超意識)の方向へと進んでいます。スーパーコンシャスネス・超意識とは、別の言い方で言えば悟りの状態であり、「魂」はその人生の旅の目的地に気づいていてもいなくても、悟りの状態へと進んでいるのです。とは言え、気づいていれば目覚めを加速させます。クンダリーニがその意識を高めるために経験する様々なレベルの「知覚」を「チャクラ」で表現します。意識が高みへ上昇するにつれ、知覚力が広がり発展します。クンダリーニの「旅」は永遠に進化し続けるものなのです。というのも、「気づき」のレベルがクンダリーニによって一つずつ新しく獲得されるたびに、チャクラが機能し続け、広がり発展し続けるからです。 
 
「意識」は背骨の底辺にあたる根底の中心部で休眠した状態で存在しています。これが「ムーラダーラ」チャクラのある場所です。「ムーラ」とは「根っこ」という意味です。ここで優先されるのは身体的な保護・維持です。このレベルで現実・リアリティを認識すると、生きる上で最低限必要なもの、たとえば安心感、安全な居場所、食べ物などに主に関心が向くようになります。「お金」はその最大の関心ごとになるでしょう。物質的な世界にしっかり根を張ることは、完全に霊的・スピリチュアルな理解・実感へと上昇しようとするのに必要なことなのです。 
 
私たちにとっての基本的な欲求と責任が十分に満たされると、「意識」は性的で創造的な表現へと進化し始めます。これが意識の「旅」の2番目のレベルで、「シュヴァディシュターナ」チャクラが関係する部分です。この創造的な表現とは、アート・芸術および(または)生殖・出産という姿・形態で表されます。創造的な経験のあと、次にやってくるのが自分をエゴと同一視したり、権力・パワーを求める傾向になったりしますが、これが3番目のチャクラ「マニプーラ」が関係する傾向です。このチャクラが力をつけて表面化すると、承認欲求が強くなり、富と名声を手に入れて世俗的な成功を得たいと思うようになり、他者や環境をコントロールしようと苦心するようになります。ほとんどの「魂(jiva)」はこの最初の3つのチャクラによる「気づき」のレベルに留まったままで、そこを通過して「意識」の進化を遂げることもできないままに一生涯を過ごしてしまいます。けれど、そうした進化を成し遂げる人は、他者の利益に役立ちたいという欲求をもとにした行動の動機を持っているのです。 
 
「意識」が心にある時、つまり「アナハタ」チャクラに存在するとき、「魂」は生きているものすべてと互いに関わりあっていることを認識し始めます。自分中心ではなく、他者中心の考え方が人生の導き手となるのです。この「気づき」のレベルになると、思いやりの心・慈悲の心が「意識」を活気づけてくれます。多くの聖人はこうした心で生きています。つまり「意識」がとても高まったレベルで生きているのです。 
 
「意識」がさらに上へと昇り続けると、「ヴィッシュダ」チャクラへと移動します。このチャクラはネガティブな感情による毒が中和される場所、つまり浄化の場所です。この場所からより高い智慧、つまり神聖な自己と結びついて調和した智慧が表現されるのです。その声は純粋で甘く優しく、真実を語ります。その思考、言葉、行動のすべては、生命が持っている最も高い可能性を表現するし、平和を体現しようという強い欲求と善い意図を動機にしています。 
 
この場所で得た雄弁な説得力を起点にして、つぎに「意識」は謙虚さを獲得し、超越した喜びが住まう場所へと、つまり第3の目と表現される「アルジュナ」チャクラへと進化します。この場所では認識がクリアになるので、二元性・双対性が超克されて同一性・完全性(oneness:ワンネス・梵我一如)が認識されるようになります。神聖な自己がすべての生き物に、すべての事物のありとあらゆるところに、見えるようになります。こうした同一性・完全性の認識ができる場所から、つぎに「意識」は「サハシュララ」または「冠」のチャクラへと上昇します。このチャクラには蓮の花の1000の花びらが一つずつ無限に開く最上の歓喜が究極の現実として存在しており、私たちが持っている感覚のすべてが生まれ出た場所に戻って一つに溶け合い、その感覚は神聖な力によって超越・深淵なものになります。愛するものと愛されるものが愛で一つになるのです。これこそ神聖の「気づき」、スーパーコンシャスネス・超意識であり、それが「ムクティ」の状態、つまり「アヴィディア(無知)からの解放」をもたらしてくれます。その結果として「魂」が神と再び結び合う「サマディ」がもたらされるのです。それは至高の喜びなのです。 

著:シャロン・ギャノン(Jivamukti Yogaの創始者の1人)
訳:Rei(宮崎県)

【POLITICAL ACTIVISM AND SPIRITUAL ACTIVATION】2022.November
  政治的活動と精神的活性化

यद्यदाचरति श्रेष्ठस्तत्तदेवेतरो जन: |
स यत्प्रमाणं कुरुते लोकस्तदनुवर्तते || 

Oṁ
yad yad ācarati śreṣṭhas tattad evetaro janaḥ
sa yat pramāṇaṁ kurute lokas tad anuvartate

偉大な人は模範を示し、世界中の他の人が従う基準を設定します。
ーバガヴァッドギータ、チャプター3・21節

私たちは問題に満ちた世界に住んでいて、私たちはそれらの問題の解決策です。

— ジュリア・バタフライ・ヒル

倫理的に基づき、哲学的に健全で精神的実践の活性化は、環境的、社会的、政治的領域を意味する身体政治へのこれらの戒律の統合を意味します。私たちは様々なコミュニティのメンバーです。これらのコミュニティのいくつかは土地に基づいており、他の一部は世代に基づいています。利己的な視点が思いやりのある知恵に置き換えられると、どちらも深く影響を受けます。したがって、より大きな世界コミュニティは、真に活性化された精神的な存在の批判、ジヴァンムクタに起因する政治的活動によって積極的に影響を受けています。各行動、私たちが個人として、そしてコミュニティの一員として行うすべての選択は、私たちが住んでいる世界に影響を与えます。政治とは、部族、人々、私たちが住んでいる他の人々を指し、すべてのレベルで交流します。私たちは同じ太陽の下に住み、同じ空気を吸い、同じ水を飲みます。私たちの個々の行動は、共同の太陽、空気、水に影響を与えます。それを反映すると、すべての行動が政治的であることが明らかになります。

実際、私たちは、現在、今日、今、どこにいても、私たちの行動と選択によって、私たちの共通の未来を決定します。私たちのカルマは複雑に絡み合っており、意識することが最も重要で、思いやり、教養のある選択は必然的に私たちのコミュニティを遠くと近くを形作ります。ヨガの練習は、私たちの行動をきれいにすることです。カルマヨガは、「行動」(カルマ)の「完璧」(ヨガ)と訳されます。ヨガの観点から、完璧な行為は、無償の行為です。ヨギは、サットサングや真実を求めるコミュニティのコミュニティを通じて完璧に行動します。なぜなら、個人にとって何が最善かは、全体にとって何が最善かを検討することによってのみ決定できるからです。政治的に活発であることは、実際には、私たちが一緒に暮らす他の人の安全と福祉を積極的に気を配ることを意味します。他人に気を配ることで、他のどの行動よりも早く悟りに近づけるでしょう。

投票とは、気にする、誓う、望む、意見を表明する、選択する、支持する、または承認することを意味します。投票は動詞です。私たちは取るすべての行動で投票します。確かに、私たちは何かを購入するたびに投票します。私たちは「ビッグビジネス」の欲に文句を言うかもしれない。私たちは指を差して、政府が企業の誘惑に売ったと非難するかもしれません。しかし、私たち国民は、企業の財源を埋めるのは私たち、あなたと私であることを認識しなければなりません。幸せへの欲求の中で、私たちは彼らが提供する製品を消費し、より多くを要求します。私たちは、政治家が必要に応じて警察や軍隊の軍の力と一緒に高い生活水準を維持することを期待しています。私たちの生活水準は、すべての存在の生活の質ではなく、個人の富に基づいています。これらの利己的な行動を通じて、私たちは感覚を死に、私たち自身とこの地球、そしてそれを私たちと共有する他のすべての存在との間を切り離す断絶の割れ目を広げます。しかし、物質的な物体は決して幸福への欲求を満たすことができないので、私たちの飽くなき欲望に終わりはありません。物事や周りの人々は私たちに幸せを与えることはできません。私たちはすでに幸せを持っています、それは私たちの性質であり、外部の物質的な条件に関係なく、私たちの魂の中に住んでいます。それを発見するには、私たちは自分の中を見なければならない。私たちが幸せを求めて外を見るとき、それはいつも私たちから身をかわして避けます。

私たち人々は、金持ちであろうと貧乏人であろうと、より多くを欲しがっているように見える。より多くのショッピングモール、より多くのガソリン、より多くの石油、より多くの服、より多くの車、より多くの靴、より多くのエンターテイメント、より多くの医薬品、より多くのテーマパーク - 私たちはすべてを欲しがっています。条件づけられた心は絶え間なく、そしてほとんど無意識に望んでいる。

私たちは、本当に価値のあるものを見つけるために、条件づけられた心を超えて、自分の魂を深く見なければなりません。愛は私たち自身の魂の中に隠された富です。私たちの中の無限の愛の井戸を掘り下げ、私たちが属するコミュニティと共有すると、私たちは自己満足の連鎖から自分自身を解放し始めます。前向きな考え、言葉、行動を投影する。常に投票し、決して投票に反対しない。ガンジーのように、「あなたが見たいと思うなら、自らが変化になりなさい」。ヨガの教えは、私たちが私たちの世界で見る不一致に責任を持ち、他人を責めないとき、私たちは悟りへの道の非常に重要な一歩を踏み出していることを明らかにしています。他人が私たちの幸福の鍵を握っていない、私たちが自分自身の中にそれを握っていることを認識すると、本当の自信が生まれます。

自分自身を問題の一部として見なすが、最も重要なのは解決策の一部として見なことです。前向きでいること、怒り、分裂的なスピーチやゴシップを控えてください。買うものの量を減らしてください。使用するガスとオイルの量を減らしてください。歩いたり自転車に乗ったりできる場合は運転しないでください。あなたの家の散らかっているものを片付けなさい。今よりもさらに単純に生きるようにしてください。世界のゴミの量を減らすために自分の役割を果たしてください。ヴィーガンになって下さい。

スワミ・ニルマラナンダは言った:「私たちは、私たち一人一人が世界と社会の現状に責任があることに気づいていないようです。したがって、より良い世界と社会を持つために、私たち一人一人が問題に貢献するのをやめなければなりません。他の人が単に生きることができるように、自分自身の中で単に生きる方法を見つけることができるとき、私たちは戦争と飢餓の終わりを見るでしょう。私たち自身があえて自分自身の中にその平和を創造し、それを具現化する勇気を持つことができるとき、私たちは地球で平和を見るでしょう。

沈黙をせず、しかしあなたの言葉で意識を高揚させ、愛らしく、優しく、敬意を持って話してください。あえて気にかけるなら:あなたが行うすべての行動と共に愛のために投じることのできるグローバルコミュニティに自分自身を捧げてください。

シャロン・ギャノンの本「永遠が今起こっている」からのエッセイより
https://eu.jivamuktiyoga.com/collections/books/products/eternity-is-happening-now-volume-one
Eternity is Happening Now – Volume two – Jivamukti Shop EU (jivamuktiyoga.com)

著:シャロン・ギャノン(Jivamukti Yogaの創始者の1人)
訳:アイコ・ナガタ

【VINYĀSA KRAMA: MOVING WITH NATURE】2022.October 
   ヴィンヤサクラマ -自然と共に動く
om sarva maṇgala-māṇgalye 
śive sarvātha-sādhike 
śaraṇye tryambake gauri 
nārāyaṇi namostu te

オーム サルヴァ マンガラ マンガリィェ
シヴェ サルヴァータ サーディケ
サラニィェ トラヤンバケ ガウリ
ナーラーヤニ ナモス テ

私たちは、全ての善の中で祝福された母であるナラーヤニに敬意を示します。
縁起の良い女神、あなたは全ての目的を成し遂げ、信じる者に慰めを与える者。
輝かしい三つ目を持つガウリよ。
-ドゥルガー・サプタシャティ 第11章

ヴィンヤサは、5 つの要素(意図、目線、呼吸、動き、ムーラバンダ)を統合した動く瞑想のことです。
-これらを一度に練習すると、魔法は上昇せざるを得なくなります!  実践で5つの要素全てをコーディネートし、ヨガの経験をする力を持ちます。音楽と同じように、ヴィンヤサは規則正しいリズムの体験のことです。ウジャイー呼吸は、聞くことに集中するための身体的な音を私達に与えてくれます。テンポ、つまり実践のタイミングも教えてくれます。動きを時間の中に置くことで、生命の一連の展開を意識することができます。リズミカルな呼吸は、アーサナのシークエンスがまるでメロディーのように動くメトロノームとして機能します。
「時間を越えていくために、まず私達はタイミングをマスターしなければなりません。私達はミュージカルにならなければなりません。」
 — シャロン・ギャノン

スーリヤナマスカーラまたは太陽礼拝は、通常、一連のアーサナを一定の呼吸と合わせて流れるように動くすることによって実践されます。この場合、それぞれの動きは均等な呼吸を取ります。呼吸と体が一体となって一つの音楽を作ります。
「ヨガは音楽のようなものです。体のリズム、心のメロディー、魂の調和が命の交響曲を生み出します。」
— BKSアイアンガー

ヴィンヤサの実践は、「動く瞑想」と呼ばれることもあります。注意が1つの対象に集中する座った実践とは違い、ヴィンヤサは文字通り常にいま展開するこの瞬間(クシャナ)に焦点を当てています。つまり、時間そのものに瞑想しています。 目線(ドリシティ)は私たちの注意と共に動きます。一点に定まった注意は、一連の行動を通して時間の流れに添います。これらを花の成長全体を捉えることができるタイムラプス(微速度撮影)のフィルムのように考えてみます、タイムラプスのおかげで、それぞれの瞬間が途切れることなく次の瞬間にどのように繋がるのかを見ることができます。
「ヨガは流れる中にあります。」 
— デイヴィッド・ライフ
このように変化という性質を研究することで、変わらないもの・永遠なものを垣間見ることができるかもしれません。ヴィンヤサクラマを実践するとき、私たちは空間を移動し、体、心、環境など、変化する全てのものを観察しています。変わらないもの、つまり永遠の自己、絶対的な真実、ブラフマンを知覚するために。

実践はまた、"原因と結果"を洞察します。動きは私達が世界でどのように行動するかの研究です。クリシュナはアルジュナに、賢明な行動 (そして賢明な不行動) を学ぶことがヨギーの使命であることを思い出させます。思考が言葉になり、行動が習慣になる方法を研究することで、他者との関係における自分自身をよく調べることができます。私達の動機がどこから来るのか、偏見や好みが私達の行動にどのように影響を及ぼすのかを理解することで、他者への理解と共感を高め、世界で思いやりのある行動をとろうとする傾向を高めていきます。今日では私達が一体となって動けば、繋がりや帰属意識が芽生え、思いやりある行動をとる傾向が高まることを示す研究すらあります。

ムーラバンダを一貫して意識すると、他の構成要素と結合し、それら全てにエネルギーが集まり、光ファイバーケーブルのようにエネルギーが 1 つの集中した方向に移動するように向きが変わります。ムーラバンダはヴィンヤサの5つの要素のエネルギーを整え導きます。 ドリシティ(目線)もどこにいても神を見ることができるよう、私達の視覚に関連しています。より高い意図、つまり献身、私達が相互に関連しあっていることを理解するために自己探求を愛 することは、平凡な一連の動きから言葉では言い表せない体験へと実践を高めます -ノートに書かれた楽譜だけでは音楽を伝えることはできません。楽器、ミュージシャン、魂の才能が楽譜と組み合わさった時に初めて、音楽となるように。

著: ジェシカ・スティックラー
訳: Yuri OGAwa (小川友里)/京都府

【Sastra:The library of your life】2022. September 
シャストラ:人生という図書館 

オム サハ ナーヴァヴァトゥ サハ ナウ ブナクトゥ 
サハ ヴィーリャム カラヴァーヴァハイ 
テジャスヴィ ナーヴァディータム アストゥ マー ヴィドヴィシャヴァハイ 
オム シャンティ シャンティ シャンティ 
私たちを共に容認できるように 私たちを共に守れるように  
私たちの知識と強さが増しますように 私たちが互いに憤慨することがないように   
「カタウパニシャッド」より祈りの詩 
 
かつてこんなことがありました。もう今となっては何年も前のことですが、わたしは祖父の書斎の机の下に隠れて座っていました。その机はすごく巨大なペルシャ絨毯のカヴァーがかけられていて、机の4本の足をすっかり隠してしまうくらいの絨毯は、ドレープが床にも限りなく広がっていました。その書斎で祖父は数えきれないほどの時間を過ごし、昼と夜の時間を全部足しても足りないほどの時間を費やしていましたが、その書斎は本だらけでした。部屋の天井から床まで本で埋め尽くされ、書棚にはきちんと本が整頓されていて、床上にも本がぎっしり詰まれていました。こうした本の量は私にとっては怖くなるほどでした。ただ単純に本が過密なほどの数であったり、本のほとんどが法律関係のテキストだったり(祖父は裁判官だったので)というのもありますが、それだけでなく、怖かったのはそのあとのことを考えたから、つまり、(本を読んだとしても)この本たちが示すゴールや、この本たちに込められた熱気・熱意に自分が到達しないだろうという恐怖が、私を机の下に隠れさせてしまったのです。 
 
サンスクリット語で「シャストラ」の語根である「シャス」には、教えるとか指導するとか誤りを正すという意味があります。なので「シャストラ」は指図、ルール、マニュアル、書物、権威ある人の作品、経典、と定義されます。「シャストラ」とはサンスクリット語の学習および古典的な経典の研究でもあるのです。 
 
教書や経典、説明本などは、ともすると私たちにはとても手の届かないものと感じられがちです。そこに書かれている教えは私たちの毎日の暮らしには遠く及ばないものとして映ることもあります。聖人たちについて書かれた物語を読んだり、師匠たちのありがたい智慧を聞いたりすると、こういう人たちは不親切な意地悪い考えなど抱いたこともないだろうな、とか、この人たちは他者を傷つけたことなどないのだろうな、と思えてしまいます。こうした教書を読むと、つい自問してしまうものです。「こんな生き方が自分の人生の舵取りにもできるだろうか?自分はあんなふうになれるだろうか?聖人のように生きられるか?」と。たいていの場合、心の中の内なる声は、「いやいや、自分にそれはないな!」と即答してしまいがちです。けれどシャストラが示唆するのは私たちの可能性なのです。シャストラは私たちに、本来はみんな優しさと思いやりの心を持つ能力をそなえているし、心の奥深くでは他者の人生・命を高めてあげられる生き方を切望しているのだ、と思い出させてくれます。シャストラは、今この時その生き方が可能なのだ!ということを私達に気付かせるのです。 
 
どんな場面でも、どんな機会でも、どんな関係性においても、私たちにはヨガについて、互いが依存して生きていることについて、互いがあってこそ存在していることについて、学ぶことができると教えてくれます。たとえば私たちが呼吸しているこの空気、それは木々のおかげできれいになっているし、それはつまるところ木々と私たちが互いに「ある・存在する」ことを意味するのです。コロナでロックダウン中であっても、マスクをしていても、ソーシャルディスタンスをとっていても、互いをリスクから守るように助言されているあらゆる手段をとっていても、それでも同じ空気を私たちは呼吸しています。空に虹がかかっているのを見つければ、その光の放射は、太陽の光と雨という特定の原因と条件が同時に起きているから見えているだけだと知っています。ひとつの行為にみられる原因と結果の法則、つまりカルマの法則を、私たちは空に現れたカラフルなアーチからも教えられるのです。物事は相互に依存にしている、それは確かに真実だけれど、ただ私たちにそれを見る姿勢が整った時だけ目に見える真実でもあるのです。シャストラは私たちに真実を見る心の状態を満たしてくれるでしょう。 
 
ヨガの伝統によるならば、私たちは話に聞いたものを信じるだけでなく、直接的に経験して探求するように求められています。パタンジャリ師によると、私たちが知識を得る方法には3つある、とヨガスートラ1章7節に記してあります。最初の1つが認識(pratyakshaプラティヤクシャ)によるもの、つまり確かな知識というのは知覚できて、視覚的で、目の前に存在している(プラティヤクシャの「アクシャ」とは目のこと、視力、見通すこと、容認すること)というものです。知識を得るための確実な方法の2つ目は推論または証明(anumanaアヌマーナ)を経たもの。そして3つ目は信頼できる根拠・典拠(agamaアーガマー)から導きだされた知識であり、つまりは評価され権威のある典籍や、口述による教唆または書き記された典拠(例えば尊敬されている人物、その分野の専門家で第一人者としての知識ある人物)のこと、つまりシャストラ(経典)によって得る知識です。 
 
ジヴァムクティヨガの5つの教義はシャロン・ギャノン師とデイヴィッド・ライフ師によって共同設立されたヨガメソッドの土台を作る5つの柱であり、「シャストラ」はその5つの教義のひとつです。教本書、教唆、指導というのは、その学びを経験し教わってきた先人たちによる寛大な行為として、さまざまな時代を通して教え継がれてきたのです。こうした教えは、あるときは椰子の葉に書かれて伝えられたり、あるときはパピルス紙の巻紙に書かれたり、蝋引き書版に書かれた時代もあったり、割れた陶器の破片にあったり、洞窟の壁にも書かれたりして、先人たちが学び、経験し、明らかにしてきたことが、将来の世代にも生き続けて価値あるものになって欲しいという希望を込めて書き残されてきたのです。 
 
スピリチュアルな教えにはよくあることですが、私たちはそれを1回や2回、または3回聞いてもなかなか理解しにくいものです。時には教えを聞く姿勢を変える必要もあるし、教えを目にするときは違ったアングルから新しい視点で見る必要もあります。その意味でアサナのプラクティスは、教えの「種(たね)」を受け止める土壌を、手入れして耕す行為に似ています。プラクティスのための空間に足を踏み入れるとき、私たちは多くのものを持ち込んでいます。その空間にいても、その瞬間に伝えられる教え・智慧を受け止められないこともあるでしょう。けれど、少なくとも私たちは「OM」のようなシンプルな音をチャンティングできるし、プラクティスに集中して空間に集う人たちとの一体感をつくる手助けになるような一節を、共にチャンティングすることもできるはずです。アサナのプラクティスを終えたころには、先人たちの教えを経験したことで、自分の表面を覆っていた頭でっかちな考えから解放されて、これまで気づかなかった新しい発見をすることもあるでしょう。 
 
シャストラは私たちを怖気づかせたり、不快にしたりするためにあるのではありません。それどころか、シャストラは私たちの友のようなものです。自分に素直になる経験、人間的・個人的な経験、思考概念によらない直接的な経験へと、心の窓を開くことを目的に作られている手引き書、それがシャストラなのです。自分自身で得た経験を通してそれが実感・確証できさえすれば、シャストラはきちんと知識を得た感覚を裏付けてくれるものだと気づくのです。シャストラからアサナへと、マインド(思考)からボディー(身体的経験)へと、私たちの内なる能力は日々の暮らしによって学びを得るように、心を耕すように、絶えることなく導かれているのです。 

著:リマ・ラニ・ラバス/SOUK STUDIO in NewYorkCity
翻訳:Rei/宮崎

【DHYĀNA: BE STILL. BE HERE NOW.】2022.August
ディヤーナ: じっとする。 今ここにいる。

tatra pratyaya-eka-tānatā dhyānam
1 つの対象に注意 (サイキック エネルギー) を集中させるか、心的暗示を 1 つのアイデアに固定し、絶え間なくその状態を継続的に保持すると、その結果が瞑想 (ディヤーナ) である。(ヨーガ・スートラ3章2節)


科学者達の計算によると、現代に暮らす人々は 30 年前の人々の 5 倍の情報を 1 日で消費しているようです。 その結果、私たちの集中力は低下しています。瞑想の練習のために目を閉じて 、例えば、外部の刺激ではなく呼吸に集中するように求められても集中する能力は数秒にすぎません。 心は常に私たちが感情的に執着を持つ過去や未来に対するある種の刺激を求めているのです。 それは今この瞬間と、この瞬間の呼吸に抵抗します。 それは、瞑想と日常生活の両方において、私たちの欲望がすべて満たされ、過去の問題がすべて解決された後、希望に満ちた未来に幸福が達成されるという私たちの強い信念に起因する可能性があります。

マスター・パタンジャリはヨガを心の動きの停止と定義しています。 執拗な思考が止むと、先見者はそれ自体の本性で確立され、個人はその真の本質がスヴァルーパであることを認識します。 彼は、そうでなければ、人は思考だけに同一視されると言います。
瞑想とは、自分の心を知るプロセスであり、内面で起こっていること、それはしばしば、内面的には恐怖、不安、抑うつを引き起こし、外的には紛争による搾取と支配を引き起こすすべての暗い隅と根深いサンスカーラ (経験によって引き起こされる微妙な痕跡) に完全に注意を払うことです。

そのため、現在の瞬間との関係を築く自然な能力を備えたサトヴィックな心を既に備えていない限り、瞑想の練習を開始する時点で平和と至福から遠く離れた内面の経験に直面する可能性が最も高いのです。精神がタマシックであれば、座ってから数分で眠りに落ちるかもしれません。 精神がラジャシックであれば、落ち着きがなくなり、不平不満な考えが生じます。 根深いコンプレックス、恐怖症、心配事が表面化するかもしれませんが、これはプロセスの避けられない一部なのです。瞑想そのものを通して、これらの精神的な不純物が表面化し、注意深く注意が払われ純粋な観察の光の中で溶けていきます。 その効力を信じ、一貫して継続的に実践することこそが、穢れを燃やす鍵となります。

瞑想を妨げるもう 1 つの障害は、身体そのものと、ここが痛い、ここが痒いといった不快感を通じて身体が絶えず注意を喚起することです。 パタンジャリはアーサナを快適で安定した座法だと説明していますが、そこに到達するには時間と練習が必要です。 アーサナの練習は、体と心の病気を取り除き、予防し、神経系を強化し、体をしなやかでありながら強くし、身体的な不快感なく長時間座ることができるため、瞑想に非常に役立ちます。体が楽になり、じっとしていられるようになると、心もそれについてきます。 アーサナ自体を積極的な瞑想の形としてアプローチすることができます。

瞑想や経典の探究、アーサナ、プラナーヤーマ、マントラの繰り返しなど、その他の実践によって精神がよりサットヴィックになると、瞑想における思考の性質が変化します。 多くの場合、真理の教えに対する反省が生じ、理解と同化が深まり、最終的には師匠達によって伝えられた知恵そのものになるのです。 シャロン・ギャノン氏が言うように、私たちは「聴くことから聞くことへ、知ることへ、そして存在することへ」と移行するのです。

ヴィパッサナー瞑想の教師であるS.N.ゴエンカ氏は、瞑想の実践の進歩を測る尺度は2つしかないと言います。それらは、思いやりと平静さです。 彼はこの 2 つが発達していない場合、テクニックが正しく実践されていない可能性があり、修正する必要があると言います。 瞑想を日常生活の一部にすることで、心の静けさと安定とともに自然にアヒンサー(非暴力)が確立されます。

世の中には多種多様な瞑想法があります。 パタンジャリは、スートラ1章39節で、“yathābhimata-dhyānād vā また、どのような方法であれ、どのような対象であっても瞑想することで、マインド・フィールドは安定します。” と述べています。 私たちは皆、過去の経験に応じてさまざまな傾向を持っており、さまざまなオブジェクトに焦点を当てて瞑想することに惹かれます。さまざまな神のイメージ、マントラ、身体の感覚、呼吸、チャクラ、音、又はその他の形がある又は形のないオブジェクトなど、それに関しては同意できます。 ジヴァムクティヨガのクラスでは、呼吸への意識と「Let Go 手放す」という言葉をその普遍性のために使用します。 これはマントラ瞑想の一形態です。

何を選択するにしても、選択したオブジェクトに1分間でもとどまるのが難しいことに気付いたときに、イライラしたり挫折したりしないように、強い決意を持って心を向けることが大事です。 選択したオブジェクトに繰り返し注意を戻すことで、秒が分に、分が時間に変わり、集中力が強化され、最終的には瞑想へと変わります。 貫き通すことが重要であることを常に思い出してください。 

瞑想の直接的な経験を通して探求しましょう。 この体は何? この心は何? そして、体と心を観察できるこれは何? すべての思考とすべての経験の背景にあるものは何? それらはどこから現れ、どこへ行くのか。 このように、瞑想中の閉じた目の裏の暗闇の中で、現実よりも微細な層に深く入り込み、内なる光の中で、存在の完全なるあなたの本質である'Sat-cit-ānanda 真実、意識、至福’ を発見してください。  神、純粋な意識、永遠の今、精神、愛などの多くの名前を持つこの存在を認識することは、私たちに知覚された束縛からの解放となるのです。幸せも、不幸も100%自己責任です。
瞑想しましょう。 あなたの自我を知りましょう。 幸せになりましょう。

著:オルガ・オスコービナ/Jivamukti yoga center in Balcerona
翻訳:Heeki Park/福岡市

【NADA YOGA:UNION THROUGH SOUND 】2022,July
「ナダ・ヨガ」音による融合

アナハタ(チャクラ)の音の響きが知覚されると、その響きは光の中に入る。心はその場所で消滅 する。それはヴィシュヌ神の最高の境地である。
(HYP IV.100)

ナーダは、アナハタとアーハタの 2 つの形態に分類されます。「打たれざる」という意味の アナハタは、振動する根源的な創造の音であり摩擦で創られるものではありません。プラナ ヴァ(聖音)またはオーム(A-U-M)とも呼ばれ、私たちの微細な精神的感覚にだけ知覚で きる音です。 「打たれる」という意味のアーハタとは、空気の分子が互いに「打たれた」 音であり、例えば、弦を弾いたり、歌ったり、葉がざわめいたりするなど、普通の感覚で知 覚できます。 音、サブダは、パンチャ・タンマートラの中で最も微細なものであり、嗅覚、 味覚、視覚、触覚を含む 5 つの微細な要素でもありますが、最も強力なものになることがで きます。私たちの聴覚は、子宮内で最初に発達し、人間の肉体的な経験の最後にも残ります。 ヨーガスートラ 1―32 で、パタンジャリは、心が一つの対象に完全に集中しているとき、 瞑想の練習を邪魔する可能性のある障害を阻止することができると述べています。 瞑想 (ディヤナ)はサマーディの前に来ます。そこで、人は夢中になり、「知識の対象と一つと なる」ことができ、私たちに永遠の至福をもたらすことができるのです。古代の聖者達(seers) のこの気づきと微調整は、彼らが神聖な教えや啓示を「聞いた」ほどの強力さを持ったリス ニング能力が、ヴェーダとして知られているシュルティとみなされました。アナハタの最高 の知識に向けてリスニング能力を微調整するために、私たちは、環境の音、自然の音、私た ちの声、呼吸、神聖な音楽、シンギングボウルなどのようなアーハタナダをマインドフルに 聞く練習を始めることができます。身体的に聴覚制限のある個人は利用できませんが、アナハタはすべての人がアクセスすることができます。
音は形がなく、名前がなく、ひとりよがりでもなく、私たちのサンスカーラは寄せつけず、 私たちの個人的なストーリーも付けず、より静かな内面の風景を作り出します。マントラと 同様に音の瞑想は、私たちが心の奥深くに移動し、絶え間なく心を乱すおしゃべりを沈黙さ せることを可能にします。音楽も同じ体験を提供できます。インドのラーガは、インドのサ ルガム(音階)の音符のさまざまな構成を使用した音楽のフレーズであり、望まれたババ(気 分)として、1 日のさまざまな時間帯、季節によって使用されます。たとえば、ラーガブー パーリは静かで柔らかなメロディーで、深くなめらかで落ち着いた雰囲気を作り出し、夜の 早い時間に歌ったり演奏したりします。ラーガバイラヴァはシヴァの歌として知られてお り、神話によれば、それは「アディラーガ」–最初のスケールであり、最高の意識を表現し、 朝に演奏したり歌ったりします。刺激的で高揚する言葉を使った叙情的な音楽は、文脈や内 容を通じてより高い意識の状態を楽しみ、より良くつながることができる私たちの心の状 態も誘発し高めることができます。
私たちはエネルギッシュで振動する宇宙に住んでいます。量子科学の研究は、原子粒子–中 性子、陽子、電子、およびクォークのような亜原子粒子が実際にエネルギーの渦であること を示しています。この宇宙の全ては、最も粗大なものから最も微細なものまで、エネルギー と振動でできています。私たちがさらされている振動は、私たちにすぐに明らかな影響を与 える可能性があります。例えば、音楽は完全にインスピレーションを与え、完璧なムードを 作り出すことができます。 ぴったりな音楽があれば、難しいアーサナは楽になります。 人 間は本来備わっているエネルギーと振動に存在し、音を通して私たちの外部にあるエネル ギーと振動を認識し、接続する能力を持っています。その認識と承認により、私たちはその 中にあるものを理解することができます。私たちが音を感じ、聞き、そして場合によっては 見ることができるとき、私たちの内部および外部環境のエネルギッシュな振動の間には連 携があります。その連携は、私たちが振動する宇宙と一体であることを私たちに知らせます。

「初めは言葉であり、言葉は神と共にあり、言葉は神でした。」 聖書、セントジョンの福 音書 1―1。「言葉」はオームと同義語です。創造は、神の絶対的な意識からの宇宙の振動の 投影から始まりました。この振動する創造力は、オームという音を生み出します。「言葉」 は、他のすべての振動が波のように動く宇宙の振動の海だとセントジョンにより語られま した。 VaharaUpāniṣad、V:69-70 では、オームを「滑らかに流れる油のように連続的で ある、と説明しています。それはゴングの長い皮であるかのように。常に新しく、刺激的で、 言葉にできない音を知っている人は、ヴェーダまたは全ての真実が知られていることを知 っています」と。パタンジャリはまた、神をオームとして語っています。ヨーガスートラ 1 ―27.28 で、彼は私たちに神を知るためにオームに瞑想する道具を提供してくれました。 オ ームは、有限の創造物に現れる神の投影された創造力です。神との結合を知り達成すること は、アナハタ・ナーダは、つまりオームとの調和を通して私たちに提供される最高の優れた知能であります。 

Focus by Nora lim(翻訳: Chiemi sora)

【Bhakti: What We Worship】2022,June
-バクティ(献身): 私達が崇拝するもの-
hare kṛṣṇa hare kṛṣṇa kṛṣṇa kṛṣṇa hare hare
hare rāma hare rāma rāma rāma hare hare 

ラーダはクリシュナを「私の心、体、魂、私の全てを捕らえた人」と呼びます。
クリシュナは最愛のラーダに愛情を込めて「私の王女、私の喜び」を意味するラマという名前で呼びます。これは魂(ラーダ)と神(クリシュナ)の間の愛の対話です。
カリサンタラナ ウパニシャッド(32音節のマントラ)より
ジバムクティの伝統では、バクティ、献身は全てのクラスにおいて重要な要素です。なぜなら、私達が自分自身やある種の神聖なエネルギーを超えた何かに意識して集中していなければ、時間の経過と共に形を変えながら、野心や虚栄心、傲慢などのありふれた課題に崇拝してしまうことになるかもしれないからです。献身とは、神聖なものへの愛、忠誠、情熱を意味します。献身がなければ、おそらくあなたはこの記事を読んでいないだろうし、私も書いていないでしょう。献身がなければ、ハネムーンフェーズ(何をやっても楽しい時期のこと)の後、膝や腰が痛くなり、練習後の幸福感は薄れ、スピリチュアルな実践をやめているかもしれません。私達を動かし続けるのはいったい何なのでしょうか?起き上がりマットを広げ、瞑想のためのブランケットを準備するのは何のためでしょうか
崇拝は私達をより献身の対象へと近づけるでしょう。練習を始める度に意図を定めるということは、ナビに目的地を入力するようなものです。逆に、目的地を入力しないと、行きたくない場所にたどり着くかもしれません。目的地をナビに設定したらまず次のことを行う必要があります。
1.自身の道を知らないということを認めること(謙虚)
2.自身を導いてくれる存在に対して十分に信頼すること。
スピリチュアルな実践において、私達の道へと導いている力は、スピリチュアルな天然磁石となる神、もしくは他の形をとった神聖なエネルギーです。そしてそれに引き寄せられて、最終的にそれそのものとなります。
しかし、その導きを許すこと、それを求めるには 
謙虚さ= 私達が知らないということを認めること、信仰・信頼 = 私達が知的に理解できないかもしれない何かがあるということ、献身 = たとえ努力が必要だとしてもその道に留まることが必要です。
人の身体はしばしば生涯を通じて求められる形を取る場合があります。バレリーナの足はトゥシューズの形を取り、バイオリニストの首はバイオリンを支えるため常に横に傾き、彫刻を作る者の手はザラザラしています。私達の身体が使い慣れたやり方で形作られていくのと同じ様に、私達の心と魂もそれに準じます。私達の活動は私達の体を形作り、私達の感情は私達の顔を作ります。私達はまるで石のように、長い時間をかけて水によって侵食されていきます。私達が捧げるものは何でも、時間の経過とともにますます私達を形作ります。それは、私達が神聖な、または愛を崇拝することに専念していれば、神聖な、または愛そのものとなるということでもあります。
崇拝とは非常に反復的な性質を持ち、同じ形式の儀式が現在でも、可能な限り最大の愛と献身をもって何度も行われています。献身とは通常倦怠感や強ばりを知らず、同じことをどれほど頻繁に行うかは気にしません。献身は、それが最初または最後に実践された時と同じように、常に魔法をもたらします。パドマジが言うように、「大きな愛をもてば、全てが可能になる」のです。献身は最大の愛であり、それは間違いなく全てを可能にします。または逆に–愛がほとんどない場合は、多くのことが不可能になります。愛がなければ、スピリチュアルを熱望する全ての者は最初に立ちはだかる困難によって道から吹き飛ばされてしまいます。献身のない練習は、油のないランプのようなものです。長くは続かないし、光をももたらさないでしょう。
マハーマントラは神への宇宙の愛の歌であり、最も喜びのある形で崇拝されています。私達が完全に唱えることに専念すれば、愛するために唱え、その性質を思い出し、感動的な力をもたらして、私達が愛そのものとなります。神の名を唱えることによって、私達は神の性質を思い出します。このマントラを通して振動する強い望みは、私達が唱えることで私達そのものになり、私達の魂は神またはその固有の神の性質と一致するための強い望みを思い出します。
献身には多くの顔があります。昼夜問わずマハーマントラを唱えて酔いしれることもそう、より静寂に満ちた、親密な場合もそう。最初の太陽礼拝を行う前に神やグルを思い出すため、頭が心臓へと向けて少しお辞儀をする時も、小さいかもしれませんが献身です。祭壇から物を丁寧に取り出して綺麗に繕う様に、献身は繊細でもあります。
おそらくそれは、ただ先生によって教えられたことをそのまま実践することを意味します。私達の献身はこの人生の中で様々な形を取るかもしれません、そしてある時点でその崇拝はとても繊細になり、すでにその崇拝しているものそのものとなっているので、ほとんどは目に見えないのでしょう。

Focus by Martina Edder/Berlin(翻訳:Yuri Ogawa/京都)

【BEYOND AHIMSA:RESTRAINING&RELEASING】2022.May
アヒムサを超えて:制御と解放

सर्वे भवन्तु सुखिनः  
सर्वे सन्तु निरामयाः।
सर्वे भद्राणि पश्यन्तु
मा कश्चित् द्दुःखभाग् भवेत्।।
sarve bhavantu sukhinaḥ
sarve santu nirāmayāḥ
sarve bhadrāṇi paśyantu
mā kashchit duḥkha bhāgbhavet
あらゆる存在が幸せであるように。
あらゆる存在が病から自由であるように。
あらゆる存在が他者の美点を見るように。
誰も悲しみに苦しまないように。
—ヴェーディックの祈り

アヒムサー、非暴力、は私たちをヨガへと導くことのできる練習であり、禁戒あるいはヤマに分類されています。– 抑止したり傷つける原因となることから自分自身を制御する練習です。 
この制御には、私たちの思考、言葉、そして行動の中に既に「無意識に」存在している危害も含まれています。最初のステップは、明確な視点で私たちの行動による他者への影響を見ることです。それは、自分自身を深く、明確に、率直にそして謙虚に見ることになるのです。まず、生活の中で私たちが行動によって起こしている他への危害を減らそうとすることから始められます。これは、同じ行動(あるいは制御)を意識的に、そして継続的に、練習として繰り返すことであって、完璧でなくとも、私たちが望む新しい習慣を維持できるようになるまでの努力と継続を喜んで実践することを意味しています。
練習するにつれて、私たちは、より心の中へと向かい始めます。行動を超えて、私たちの言葉、思考、そして更には、害の原因となっている内面や、信念、態度といった最も深い根本へと向かうのです。危害を加える根拠はどこから来るのでしょうか。新しい習慣を始めるときは、ある程度の不快感が伴うことがあります。「低次な欲望から高次な欲望へと服従することがヨガなのです」とシュリ ブラフマナンダ サラスワティは言います。もしも、より良い世界を可能にして作りたければ、私たちは不快になることを快く迎え入れ、習慣の糧や瞬間的な欲望や、文化によって調教された行動に反抗しなければなりません。ちょっとした不快感を快く思うのは最初の一歩なのです。しばらくすると、危害を加える言動を止めることが抑制のように感じますが、より人生に確約して行くような感覚と内面の最も深い部分との繋がりを感じ始めます。そうなるともう不快は無く、喜びと愛、そして、他者へ貢献する言動となるのです。アヒムサーには内面から変容するという点があります。制御はその逆となり、献身、大いなる自己の展開となるのです。「アヒムサーとは、充分に満たされて愛の中で今に生き、存在すること以外の隙間はない」とジュリア バタフライ ヒルは言います。 練習が成長し拡大していくと、アヒムサーは危害の抑制の練習以上のものとなり、善良を創造していく練習となっていきます。アヒムサーは単に「否定」なのではなく、内面の「肯定」を顕著にして人生の網の目を養成していくのです。
不要な危害に対して否定的でありたいという欲望は、自分の中に見る良き美徳を拡大することに肯定的になるという変換になります。
私たちは孤独の中に在るのではなく、そうである全てに相互依存しているのです。その事を深く考え、自身の存在を可能にする存在の合算について良く考えることです。ヨガ的な感覚では、解放あるいは自由とは、実存するものから孤立した個人のために有るのではありません。全ては全ての為であり、ヨギーはその全ての中に行くのです!ヨガの中において、自己は、通常私たちが自己だと解釈しているもの(私たちの体と私たちのマインド)を超えて、拡大していくものであるとの理解を試みます。「私」という感覚を人々だけでなく、呼吸する大気を与えてくれる植物たちや、蝶々、蜂、蛾、てんとう虫、そしてコウモリ(コウモリも!)などは植物に受粉をしています。川と海は蒸発して空に海を創り雨となります。太陽はその蒸発を創り出し、非常に多くのものへエネルギーを供給します。充分に離れた所から見て、生命の網の目について熟考し、あらゆる分子の、要素の、存在の、相互依存について塾孝したのなら、、、私でないものはありません。自分のケアは即座に大いなる自己のケアへとシフトします。つまり、大気、水、土、そして生命をサポートしている全てのエコシステムのケアとなるのです。
ジヴァムクティでは、私たちは、アーサナの意味を地球との繋がりとして主張します。私たちは、身体の練習でとる形の中で安定していて喜びと共にあることを育成することに努めるのです。もう一方のレベルでは、以前は私たちが知らなかった繋がりと関係を学びます。地球と私たちの関係を癒すことは、私たちの環境を敬い、養成していくという事です。ヨガの練習として「鳥にエサをあげること」をシャロン ギャノンはクラスの中で度々提案しています。それは文字通りに鳥になる、のではなく、ここでいう発想は、私たちは日常の中で他を養成する練習の場を持っているということです。彼女の提案は、私たちが日常という外界を見て、地球上に生きる仲間たちと、この場が共有する以上の利となる場になる事を探すという事でした。私たちは都市が創り出した全ての危害を取り除くことは出来ないかもしれません。しかし、毎日、私たちの周りに居るそういった動物や住まいを失った生物へ献身する事は出来るのです。
私たちの多くが、このエスカレートする気候の危機に直面して抵抗したり失望する感覚になるかもしれません。私たちがそれぞれに分離していると見ている時、私たちはコミュニティの支援や正しい言動を探し求めることはしないかもしれません。私たちの言動が望む結果を産み出すと感じないかもしれません。私たちの文化が一般的に伝えている話でさえ、行動的であることや、変化になる事で、最も重要なのは個人の言動、一人一人なのです。これが変化を起こす何よりも強力なことで、これは、思慮ある多くの人々、活動家、コミュニティの建設者、そして変化を創る人たちと共に、文化的な内容、エコシステムの中で起こるのです。そして文化のシフトを起こす働きかけをします。時には共に働きかけ、時には平行して働きかけるのです。個々の言動は、成長する環境の生産物で、あなたもまた変化を作る事が出来るのです。

Focus by Jessica Stickler (翻訳:Sami/鎌倉)

【About Asana】2022.April 
アサナについて
  
スティラ スッカム アサナム
「座」とは安定して喜びに満ちたものであるべきだ
ヨガスートラ1:45
  
アサナは渦巻きの吸引力のように、ヨガアサナの実践によって、あなたのなかの親切な心や献身の心、静かな心、その美しさ、自己内省力も、巻き込まれ引き出されてゆきます。アサナのプラクティスを通じて身体を動かし、マインドを調整していくにつれて、同時に私達は献身の心という種を植え付けているのです。ヨガマットの上に立ち返るたびに、その種に栄養を与えて、アサナの身体の動き、呼吸、マインドにあわせながら、土を耕すように自分自身との関係性を深めています。自分の身体に向き合い、身体を本当の意味で感じとるとき、慈しみの心は広がるチャンスを得るのです。十分に自分自身を感じるなら、私達の感受性は高まり、他者の問題にも理解力が深まります。ある一定の長い時間をかけて繰り返しアサナを実戦すれば、他者の話に耳を傾ける力に磨きがかかり、アサナがさらに精錬されることによって、じっくり考え瞑想できるようになります。
  
アサナという言葉の意味には、ヨガの長い伝統を通じての多くのニュアンスがあります。この言葉が使われはじめた頃は、アサナとはあなたの「座位」、つまりプラナヤマや瞑想やチャンティングなどの場面であなたが実践のために選んで座ること、という意味でした。またある時は、あなたが座るときの対象物、つまりヨガマットや芝生のようなものを意味していました。アサナは次第に意味が広がって、より広い範囲での様々な身体の位置・姿勢をも含むようになりました。現代ではアサナとは、ヨガのクラスで多くの身体の動きをまとめて一連の動きに結びつけることという意味で使われているのかもしれません。ジヴァムクティヨガでは、アサナは身体の動きの一つの形式として重要な役割を果たしており、現代的にアップデートされた解釈でその言葉の伝統的な意味を広げています。
  
ではあなたは、どのようにアサナのプラクティスに磨きをかけていきますか?この質問は、ヨガのクラスやワークショップで、シャロン師がその空間に集う練習生達によく聞く質問です。その質問のあとに続くのが、「座」・「座る」とはどんな意味なのかの精査・研究です。「座」・「座る」とは少なくとも二つのものの間に関係性がうまれることを意味します。二つのものとは、つまり座る人と、その人を支えるために座られる(つがなる)対象のもの、です。私達みんなとつながっていて、私達みんなを支えているものって何でしょう?そう、私達が地球と呼んでいる、私達のふるさと/帰る場所、ホーム(home)です。
アサナのプラクティスは、空間を使って自分の身体をどのように動かすか、とか、どのように座るか、何に座るか、だけにとどまるのではなく、もっと大きな全体的なつながり・関係性のクオリティー(質)を高めていくこと、と理解されるべきです。では地球との関係性は安定していて喜びにみちたものでしょうか?
  
ヴィアース・ヒューストン氏は「スティラ」の意味を「安定した」と翻訳しています。何かを安定した状態にするためには、瞬間的にバランスをとるだけでは十分達成できません。たとえば「安定した生態系」と言うとき、それは柔軟で復元力のあるな生態系のことです。「安定した関係性」ならば、それは困難や難題を乗り越えられる関係性のことです。ヴィヤース・ヒューストン氏はさらに「スッカム」の意味を「快適である」と翻訳しています。これも、ただ安定させるために長い時間ひたすら緊張し続けるだけでは達成できません。快適といえるレベルにまで到達しなければならないのです。集中して努力して「座る」場所へとたどり着き、さらに地球との関係性が安定して落ち着いている上に、喜びに満ちたものであり、同時に少なくとも快適であるべきなのです。
  
人類は本当に長い長い年月ずっと地球のことを、自分たちの必要性を満たすためだけに、自分たちのためだけに、与えられているものだと見なしてきました。地球と私達の関係性は、すごくやんわりした表現で言っても、「一方的な」関係性と定義してよいでしょう。ほぼ全ての人類は「欲しいもの」を「欲しいとき」に地球から奪い取っており、だから地球は自分たちのものなんだ、と思い込んできたのです。でもこうしたバランスの悪さ(一方的な関係性・不均衡)が深刻な影響を与えた結果として、地球の環境が内的にも外的にも多くの人々にとって次第に見過ごせない問題となってきています。この世界と私達自身をきちんと大切にしたいという願いはメディアやSNSなど様々なかたちで目にするようになりました。スピリチュアルなプラクティス(霊的な修練・霊性を高める実践)を求める声があるということは、その人が個人的にも、さらに広い世界全体の一部としても、癒しを求めているということでもあるのです。
  
アサナは祝福の賛歌です、アサナ自体が持つ智慧と、私達が生きるこの世界との両方を、喜びたたえているのです。アヒムサ(非暴力)・バクティ(献身)・ディヤーナ(瞑想)・ナーダ(振動・音楽)そしてシャストラ(古代インド哲学の教え)を、マインドとハートに抱いて(つまり「頭」で理解して「心」に刻みながら)身体を動かすとき、アサナのプラクティスはその5つの要素(ジヴァムクティヨガの5つの教義)が出会う場所・合流地点となるでしょう。


Focus by Jules Febre/Berlin

【Finding Our Foundation】2022.March
基盤を見つける

ॐ सत्यं ज्ञानम् आनन्दं ब्रह्मा ॥ 
Satyam Jñanam Ānandam Brahma 
Truth, Knowledge, Bliss, Absolute
真実、知識、至福、完全

ヨガは非常に広い範囲を網羅する言葉です。 それは、最終結果だけでなく実践も表すことができます。 ヒマラヤに由来するヨガの伝統と、新たに認識されて西にもたらされたヨガの伝統があります。 ヨガという言葉は多くの人々によく知られるようになり、おそらく誰かに「あなたはどのタイプのヨガを練習・学んでいますか?」と尋ねたこともあることでしょう。 それぞれが独自の明確な解釈、教え、信念を持つさまざまな方法論があることをある程度理解します。 私たちは 名前と形、相違といった、ナマnamaとルパrupaに満ちた世界に住んでいます。 スピリチュアルな修行により自分を探している場合、相違は特に重要となります。 伝統や方法論に真に没頭する前に、まず非常に単純な一連の質問をして調査する必要があります。私が探しているものとこの方法、又は、この伝統は私の価値観と一致しているのかを。
一見、私たちはみんなそれぞれ違うという事を言う必要はないように思えるかもしれません。 それでもそれは重要であり、さまざまな伝統やリネージ(系統・血統)に反映されています。 それぞれが重要視する問題、儀式や奉仕を強調することに関して微妙な相違があるのかもしれません。 それらの違いが何であるかに応じて、私たちはさまざまな方法論に引き寄せられたり、遠ざけられたりすることできるでしょう。 そもそも何が「スピリチュアルな修行」に私たちを惹きつけましたか? 私たちが達成したいことは何で、私たちは何を探し求めていますか? スピリチュアルな修練は、自分自身で何かがおかしい、または自覚していないと感じているために、私たちに呼びかけることがあります。 私たちは、私たちの周りの世界について教えられてきたコアな概念について深い疑問を経験するかもしれません。 この疑問は、私たちが世界の困難、苦しみ、または一時的な性質を循環するときに、不安定さや不幸を経験する原因となる可能性があります。 かつて私たちの世界に対する基本的な理解がもはや満足のいくものではないことに気づき、そこから霊的な旅が「始まる」ことでしょう。
さまざまなリネージと方法論の違いが重要になります。なぜなら、それらの基盤が私たちのコアな価値、状況、又は望ましい方法と一致しない場合、どのように修練を持続するために必要なモチベーションを得ることができることでしょう。 私たちが尊敬できるカリスマ教師や他の実践者を見つけることができたとしても、その道が私たちにとって正しくない場合、それに影響を与えるために必要な時間を費やすことは不可能でしょう。 私たちはその関係を通して自分が望み、安定し、楽しい繋がりを見つけることができないかもしれません。 各リネージの基盤を探求し、それらを深く調べることで、私たちの基本的な信念への洞察が得られます。 このメソッドは私をどこへ導き、また、どのようにそこへ辿り着くことができるかなどは役に立つ問いかけになります。
たとえば、本来のジヴァムクティJivanmuktihという言葉は、「生きていながら解放された人。 まだ世界で活動していて、他の人からは個人として見られているが、経験の中核としてその独立した自己を持っていない人。」 目的としては、この体が過ぎ去った後や、この体と世界を置き去りにするために修練をするのではなく、私たちが生きている間に超越的な意識を見つけることです。 私たちはこの生涯で悟りを開くことができないかもしれないし、確かに自分自身で設定するには非常に高い目標です。 しかし、主権や解放に向けての過程で、私たちは次第に気づき、親切で、優しく、思いやりのある者になれるかもしれません。
ジバムクティは5つの教義に基づいています。アヒンサー:非暴力、バクティ:献身、ディアナ:瞑想、ナーダ:音、シャーストラ:賢者の教えを学ぶ。 これらを基盤として、多くの実践に応用することができ、芸術的な創造性をこの旅にもたらす事が可能です。 私たちに求められているたった一つのことは、ゴールである「自由」又は「解放」を覚えていることです。 私たちの心は彷徨っても基盤となる教えは私たちをサポートし、連れ戻してくれます。 私たちは時々確認するだけで良いのです。 私たちの行動は、これらの基盤と一致しているか、これらの基盤から来ているのか。 私たちの実践のおかげで、その安定し楽しい性質をより感じているのか? 以前のヨガの修練から欲しかったものが今も欲しいのか? ヨガは私たちに何を求めているのか?

Focus by Jules Febre/Berlin(翻訳:Heeki Park/福岡)

2022年4月以前のジヴァムクティヨガ・フォーカスオブザマンスについては、ジヴァムクティヨガの公式ホームページ(jivamukutiyoga.com)あるいは、Jivamukti Yoga Japanのフェイスブックページをご覧ください。Jivamukti Yoga Japanのフェイスブックでは日本語訳を毎月掲載しております。