Sami的 YogaSpotのご紹介

ジヴァムクティヨガ
フォーカスオブザマンス

Jivamukti Yoga Focus of the month

【DHYĀNA: BE STILL. BE HERE NOW.】2022,August
ディヤーナ: じっとする。 今ここにいる。

tatra pratyaya-eka-tānatā dhyānam
1 つの対象に注意 (サイキック エネルギー) を集中させるか、心的暗示を 1 つのアイデアに固定し、絶え間なくその状態を継続的に保持すると、その結果が瞑想 (ディヤーナ) である。(ヨーガ・スートラ3章2節)


科学者達の計算によると、現代に暮らす人々は 30 年前の人々の 5 倍の情報を 1 日で消費しているようです。 その結果、私たちの集中力は低下しています。瞑想の練習のために目を閉じて 、例えば、外部の刺激ではなく呼吸に集中するように求められても集中する能力は数秒にすぎません。 心は常に私たちが感情的に執着を持つ過去や未来に対するある種の刺激を求めているのです。 それは今この瞬間と、この瞬間の呼吸に抵抗します。 それは、瞑想と日常生活の両方において、私たちの欲望がすべて満たされ、過去の問題がすべて解決された後、希望に満ちた未来に幸福が達成されるという私たちの強い信念に起因する可能性があります。

マスター・パタンジャリはヨガを心の動きの停止と定義しています。 執拗な思考が止むと、先見者はそれ自体の本性で確立され、個人はその真の本質がスヴァルーパであることを認識します。 彼は、そうでなければ、人は思考だけに同一視されると言います。
瞑想とは、自分の心を知るプロセスであり、内面で起こっていること、それはしばしば、内面的には恐怖、不安、抑うつを引き起こし、外的には紛争による搾取と支配を引き起こすすべての暗い隅と根深いサンスカーラ (経験によって引き起こされる微妙な痕跡) に完全に注意を払うことです。

そのため、現在の瞬間との関係を築く自然な能力を備えたサトヴィックな心を既に備えていない限り、瞑想の練習を開始する時点で平和と至福から遠く離れた内面の経験に直面する可能性が最も高いのです。精神がタマシックであれば、座ってから数分で眠りに落ちるかもしれません。 精神がラジャシックであれば、落ち着きがなくなり、不平不満な考えが生じます。 根深いコンプレックス、恐怖症、心配事が表面化するかもしれませんが、これはプロセスの避けられない一部なのです。瞑想そのものを通して、これらの精神的な不純物が表面化し、注意深く注意が払われ純粋な観察の光の中で溶けていきます。 その効力を信じ、一貫して継続的に実践することこそが、穢れを燃やす鍵となります。

瞑想を妨げるもう 1 つの障害は、身体そのものと、ここが痛い、ここが痒いといった不快感を通じて身体が絶えず注意を喚起することです。 パタンジャリはアーサナを快適で安定した座法だと説明していますが、そこに到達するには時間と練習が必要です。 アーサナの練習は、体と心の病気を取り除き、予防し、神経系を強化し、体をしなやかでありながら強くし、身体的な不快感なく長時間座ることができるため、瞑想に非常に役立ちます。体が楽になり、じっとしていられるようになると、心もそれについてきます。 アーサナ自体を積極的な瞑想の形としてアプローチすることができます。

瞑想や経典の探究、アーサナ、プラナーヤーマ、マントラの繰り返しなど、その他の実践によって精神がよりサットヴィックになると、瞑想における思考の性質が変化します。 多くの場合、真理の教えに対する反省が生じ、理解と同化が深まり、最終的には師匠達によって伝えられた知恵そのものになるのです。 シャロン・ギャノン氏が言うように、私たちは「聴くことから聞くことへ、知ることへ、そして存在することへ」と移行するのです。

ヴィパッサナー瞑想の教師であるS.N.ゴエンカ氏は、瞑想の実践の進歩を測る尺度は2つしかないと言います。それらは、思いやりと平静さです。 彼はこの 2 つが発達していない場合、テクニックが正しく実践されていない可能性があり、修正する必要があると言います。 瞑想を日常生活の一部にすることで、心の静けさと安定とともに自然にアヒンサー(非暴力)が確立されます。

世の中には多種多様な瞑想法があります。 パタンジャリは、スートラ1章39節で、“yathābhimata-dhyānād vā また、どのような方法であれ、どのような対象であっても瞑想することで、マインド・フィールドは安定します。” と述べています。 私たちは皆、過去の経験に応じてさまざまな傾向を持っており、さまざまなオブジェクトに焦点を当てて瞑想することに惹かれます。さまざまな神のイメージ、マントラ、身体の感覚、呼吸、チャクラ、音、又はその他の形がある又は形のないオブジェクトなど、それに関しては同意できます。 ジヴァムクティヨガのクラスでは、呼吸への意識と「Let Go 手放す」という言葉をその普遍性のために使用します。 これはマントラ瞑想の一形態です。

何を選択するにしても、選択したオブジェクトに1分間でもとどまるのが難しいことに気付いたときに、イライラしたり挫折したりしないように、強い決意を持って心を向けることが大事です。 選択したオブジェクトに繰り返し注意を戻すことで、秒が分に、分が時間に変わり、集中力が強化され、最終的には瞑想へと変わります。 貫き通すことが重要であることを常に思い出してください。 

瞑想の直接的な経験を通して探求しましょう。 この体は何? この心は何? そして、体と心を観察できるこれは何? すべての思考とすべての経験の背景にあるものは何? それらはどこから現れ、どこへ行くのか。 このように、瞑想中の閉じた目の裏の暗闇の中で、現実よりも微細な層に深く入り込み、内なる光の中で、存在の完全なるあなたの本質である'Sat-cit-ānanda 真実、意識、至福’ を発見してください。  神、純粋な意識、永遠の今、精神、愛などの多くの名前を持つこの存在を認識することは、私たちに知覚された束縛からの解放となるのです。幸せも、不幸も100%自己責任です。
瞑想しましょう。 あなたの自我を知りましょう。 幸せになりましょう。

Focus by Olga Oskorbina (翻訳:Heeki Park)

【NADA YOGA:UNION THROUGH SOUND 】2022,July
「ナダ・ヨガ」音による融合

アナハタ(チャクラ)の音の響きが知覚されると、その響きは光の中に入る。心はその場所で消滅 する。それはヴィシュヌ神の最高の境地である。
(HYP IV.100)

ナーダは、アナハタとアーハタの 2 つの形態に分類されます。「打たれざる」という意味の アナハタは、振動する根源的な創造の音であり摩擦で創られるものではありません。プラナ ヴァ(聖音)またはオーム(A-U-M)とも呼ばれ、私たちの微細な精神的感覚にだけ知覚で きる音です。 「打たれる」という意味のアーハタとは、空気の分子が互いに「打たれた」 音であり、例えば、弦を弾いたり、歌ったり、葉がざわめいたりするなど、普通の感覚で知 覚できます。 音、サブダは、パンチャ・タンマートラの中で最も微細なものであり、嗅覚、 味覚、視覚、触覚を含む 5 つの微細な要素でもありますが、最も強力なものになることがで きます。私たちの聴覚は、子宮内で最初に発達し、人間の肉体的な経験の最後にも残ります。 ヨーガスートラ 1―32 で、パタンジャリは、心が一つの対象に完全に集中しているとき、 瞑想の練習を邪魔する可能性のある障害を阻止することができると述べています。 瞑想 (ディヤナ)はサマーディの前に来ます。そこで、人は夢中になり、「知識の対象と一つと なる」ことができ、私たちに永遠の至福をもたらすことができるのです。古代の聖者達(seers) のこの気づきと微調整は、彼らが神聖な教えや啓示を「聞いた」ほどの強力さを持ったリス ニング能力が、ヴェーダとして知られているシュルティとみなされました。アナハタの最高 の知識に向けてリスニング能力を微調整するために、私たちは、環境の音、自然の音、私た ちの声、呼吸、神聖な音楽、シンギングボウルなどのようなアーハタナダをマインドフルに 聞く練習を始めることができます。身体的に聴覚制限のある個人は利用できませんが、アナハタはすべての人がアクセスすることができます。
音は形がなく、名前がなく、ひとりよがりでもなく、私たちのサンスカーラは寄せつけず、 私たちの個人的なストーリーも付けず、より静かな内面の風景を作り出します。マントラと 同様に音の瞑想は、私たちが心の奥深くに移動し、絶え間なく心を乱すおしゃべりを沈黙さ せることを可能にします。音楽も同じ体験を提供できます。インドのラーガは、インドのサ ルガム(音階)の音符のさまざまな構成を使用した音楽のフレーズであり、望まれたババ(気 分)として、1 日のさまざまな時間帯、季節によって使用されます。たとえば、ラーガブー パーリは静かで柔らかなメロディーで、深くなめらかで落ち着いた雰囲気を作り出し、夜の 早い時間に歌ったり演奏したりします。ラーガバイラヴァはシヴァの歌として知られてお り、神話によれば、それは「アディラーガ」–最初のスケールであり、最高の意識を表現し、 朝に演奏したり歌ったりします。刺激的で高揚する言葉を使った叙情的な音楽は、文脈や内 容を通じてより高い意識の状態を楽しみ、より良くつながることができる私たちの心の状 態も誘発し高めることができます。
私たちはエネルギッシュで振動する宇宙に住んでいます。量子科学の研究は、原子粒子–中 性子、陽子、電子、およびクォークのような亜原子粒子が実際にエネルギーの渦であること を示しています。この宇宙の全ては、最も粗大なものから最も微細なものまで、エネルギー と振動でできています。私たちがさらされている振動は、私たちにすぐに明らかな影響を与 える可能性があります。例えば、音楽は完全にインスピレーションを与え、完璧なムードを 作り出すことができます。 ぴったりな音楽があれば、難しいアーサナは楽になります。 人 間は本来備わっているエネルギーと振動に存在し、音を通して私たちの外部にあるエネル ギーと振動を認識し、接続する能力を持っています。その認識と承認により、私たちはその 中にあるものを理解することができます。私たちが音を感じ、聞き、そして場合によっては 見ることができるとき、私たちの内部および外部環境のエネルギッシュな振動の間には連 携があります。その連携は、私たちが振動する宇宙と一体であることを私たちに知らせます。

「初めは言葉であり、言葉は神と共にあり、言葉は神でした。」 聖書、セントジョンの福 音書 1―1。「言葉」はオームと同義語です。創造は、神の絶対的な意識からの宇宙の振動の 投影から始まりました。この振動する創造力は、オームという音を生み出します。「言葉」 は、他のすべての振動が波のように動く宇宙の振動の海だとセントジョンにより語られま した。 VaharaUpāniṣad、V:69-70 では、オームを「滑らかに流れる油のように連続的で ある、と説明しています。それはゴングの長い皮であるかのように。常に新しく、刺激的で、 言葉にできない音を知っている人は、ヴェーダまたは全ての真実が知られていることを知 っています」と。パタンジャリはまた、神をオームとして語っています。ヨーガスートラ 1 ―27.28 で、彼は私たちに神を知るためにオームに瞑想する道具を提供してくれました。 オ ームは、有限の創造物に現れる神の投影された創造力です。神との結合を知り達成すること は、アナハタ・ナーダは、つまりオームとの調和を通して私たちに提供される最高の優れた知能であります。 
(Nora lim/日本語訳 Chiemi sora)

【Bhakti: What We Worship】2022,June
-バクティ(献身): 私達が崇拝するもの-
hare kṛṣṇa hare kṛṣṇa kṛṣṇa kṛṣṇa hare hare
hare rāma hare rāma rāma rāma hare hare 

ラーダはクリシュナを「私の心、体、魂、私の全てを捕らえた人」と呼びます。
クリシュナは最愛のラーダに愛情を込めて「私の王女、私の喜び」を意味するラマという名前で呼びます。これは魂(ラーダ)と神(クリシュナ)の間の愛の対話です。
カリサンタラナ ウパニシャッド(32音節のマントラ)より
ジバムクティの伝統では、バクティ、献身は全てのクラスにおいて重要な要素です。なぜなら、私達が自分自身やある種の神聖なエネルギーを超えた何かに意識して集中していなければ、時間の経過と共に形を変えながら、野心や虚栄心、傲慢などのありふれた課題に崇拝してしまうことになるかもしれないからです。献身とは、神聖なものへの愛、忠誠、情熱を意味します。献身がなければ、おそらくあなたはこの記事を読んでいないだろうし、私も書いていないでしょう。献身がなければ、ハネムーンフェーズ(何をやっても楽しい時期のこと)の後、膝や腰が痛くなり、練習後の幸福感は薄れ、スピリチュアルな実践をやめているかもしれません。私達を動かし続けるのはいったい何なのでしょうか?起き上がりマットを広げ、瞑想のためのブランケットを準備するのは何のためでしょうか
崇拝は私達をより献身の対象へと近づけるでしょう。練習を始める度に意図を定めるということは、ナビに目的地を入力するようなものです。逆に、目的地を入力しないと、行きたくない場所にたどり着くかもしれません。目的地をナビに設定したらまず次のことを行う必要があります。
1.自身の道を知らないということを認めること(謙虚)
2.自身を導いてくれる存在に対して十分に信頼すること。
スピリチュアルな実践において、私達の道へと導いている力は、スピリチュアルな天然磁石となる神、もしくは他の形をとった神聖なエネルギーです。そしてそれに引き寄せられて、最終的にそれそのものとなります。
しかし、その導きを許すこと、それを求めるには 
謙虚さ= 私達が知らないということを認めること、信仰・信頼 = 私達が知的に理解できないかもしれない何かがあるということ、献身 = たとえ努力が必要だとしてもその道に留まることが必要です。
人の身体はしばしば生涯を通じて求められる形を取る場合があります。バレリーナの足はトゥシューズの形を取り、バイオリニストの首はバイオリンを支えるため常に横に傾き、彫刻を作る者の手はザラザラしています。私達の身体が使い慣れたやり方で形作られていくのと同じ様に、私達の心と魂もそれに準じます。私達の活動は私達の体を形作り、私達の感情は私達の顔を作ります。私達はまるで石のように、長い時間をかけて水によって侵食されていきます。私達が捧げるものは何でも、時間の経過とともにますます私達を形作ります。それは、私達が神聖な、または愛を崇拝することに専念していれば、神聖な、または愛そのものとなるということでもあります。
崇拝とは非常に反復的な性質を持ち、同じ形式の儀式が現在でも、可能な限り最大の愛と献身をもって何度も行われています。献身とは通常倦怠感や強ばりを知らず、同じことをどれほど頻繁に行うかは気にしません。献身は、それが最初または最後に実践された時と同じように、常に魔法をもたらします。パドマジが言うように、「大きな愛をもてば、全てが可能になる」のです。献身は最大の愛であり、それは間違いなく全てを可能にします。または逆に–愛がほとんどない場合は、多くのことが不可能になります。愛がなければ、スピリチュアルを熱望する全ての者は最初に立ちはだかる困難によって道から吹き飛ばされてしまいます。献身のない練習は、油のないランプのようなものです。長くは続かないし、光をももたらさないでしょう。
マハーマントラは神への宇宙の愛の歌であり、最も喜びのある形で崇拝されています。私達が完全に唱えることに専念すれば、愛するために唱え、その性質を思い出し、感動的な力をもたらして、私達が愛そのものとなります。神の名を唱えることによって、私達は神の性質を思い出します。このマントラを通して振動する強い望みは、私達が唱えることで私達そのものになり、私達の魂は神またはその固有の神の性質と一致するための強い望みを思い出します。
献身には多くの顔があります。昼夜問わずマハーマントラを唱えて酔いしれることもそう、より静寂に満ちた、親密な場合もそう。最初の太陽礼拝を行う前に神やグルを思い出すため、頭が心臓へと向けて少しお辞儀をする時も、小さいかもしれませんが献身です。祭壇から物を丁寧に取り出して綺麗に繕う様に、献身は繊細でもあります。
おそらくそれは、ただ先生によって教えられたことをそのまま実践することを意味します。私達の献身はこの人生の中で様々な形を取るかもしれません、そしてある時点でその崇拝はとても繊細になり、すでにその崇拝しているものそのものとなっているので、ほとんどは目に見えないのでしょう。
マルティーナ・エダー
訳: Yuri OGAwa

アヒムサを超えて:制御と解放
by Jessica Stickler / May, 2022

सर्वे भवन्तु सुखिनः  
सर्वे सन्तु निरामयाः।
सर्वे भद्राणि पश्यन्तु
मा कश्चित् द्दुःखभाग् भवेत्।।
sarve bhavantu sukhinaḥ
sarve santu nirāmayāḥ
sarve bhadrāṇi paśyantu
mā kashchit duḥkha bhāgbhavet
あらゆる存在が幸せであるように。
あらゆる存在が病から自由であるように。
あらゆる存在が他者の美点を見るように。
誰も悲しみに苦しまないように。
—ヴェーディックの祈り

アヒムサー、非暴力、は私たちをヨガへと導くことのできる練習であり、禁戒あるいはヤマに分類されています。– 抑止したり傷つける原因となることから自分自身を制御する練習です。 
この制御には、私たちの思考、言葉、そして行動の中に既に「無意識に」存在している危害も含まれています。最初のステップは、明確な視点で私たちの行動による他者への影響を見ることです。それは、自分自身を深く、明確に、率直にそして謙虚に見ることになるのです。まず、生活の中で私たちが行動によって起こしている他への危害を減らそうとすることから始められます。これは、同じ行動(あるいは制御)を意識的に、そして継続的に、練習として繰り返すことであって、完璧でなくとも、私たちが望む新しい習慣を維持できるようになるまでの努力と継続を喜んで実践することを意味しています。
練習するにつれて、私たちは、より心の中へと向かい始めます。行動を超えて、私たちの言葉、思考、そして更には、害の原因となっている内面や、信念、態度といった最も深い根本へと向かうのです。危害を加える根拠はどこから来るのでしょうか。新しい習慣を始めるときは、ある程度の不快感が伴うことがあります。「低次な欲望から高次な欲望へと服従することがヨガなのです」とシュリ ブラフマナンダ サラスワティは言います。もしも、より良い世界を可能にして作りたければ、私たちは不快になることを快く迎え入れ、習慣の糧や瞬間的な欲望や、文化によって調教された行動に反抗しなければなりません。ちょっとした不快感を快く思うのは最初の一歩なのです。しばらくすると、危害を加える言動を止めることが抑制のように感じますが、より人生に確約して行くような感覚と内面の最も深い部分との繋がりを感じ始めます。そうなるともう不快は無く、喜びと愛、そして、他者へ貢献する言動となるのです。アヒムサーには内面から変容するという点があります。制御はその逆となり、献身、大いなる自己の展開となるのです。「アヒムサーとは、充分に満たされて愛の中で今に生き、存在すること以外の隙間はない」とジュリア バタフライ ヒルは言います。 練習が成長し拡大していくと、アヒムサーは危害の抑制の練習以上のものとなり、善良を創造していく練習となっていきます。アヒムサーは単に「否定」なのではなく、内面の「肯定」を顕著にして人生の網の目を養成していくのです。
不要な危害に対して否定的でありたいという欲望は、自分の中に見る良き美徳を拡大することに肯定的になるという変換になります。
私たちは孤独の中に在るのではなく、そうである全てに相互依存しているのです。その事を深く考え、自身の存在を可能にする存在の合算について良く考えることです。ヨガ的な感覚では、解放あるいは自由とは、実存するものから孤立した個人のために有るのではありません。全ては全ての為であり、ヨギーはその全ての中に行くのです!ヨガの中において、自己は、通常私たちが自己だと解釈しているもの(私たちの体と私たちのマインド)を超えて、拡大していくものであるとの理解を試みます。「私」という感覚を人々だけでなく、呼吸する大気を与えてくれる植物たちや、蝶々、蜂、蛾、てんとう虫、そしてコウモリ(コウモリも!)などは植物に受粉をしています。川と海は蒸発して空に海を創り雨となります。太陽はその蒸発を創り出し、非常に多くのものへエネルギーを供給します。充分に離れた所から見て、生命の網の目について熟考し、あらゆる分子の、要素の、存在の、相互依存について塾孝したのなら、、、私でないものはありません。自分のケアは即座に大いなる自己のケアへとシフトします。つまり、大気、水、土、そして生命をサポートしている全てのエコシステムのケアとなるのです。
ジヴァムクティでは、私たちは、アーサナの意味を地球との繋がりとして主張します。私たちは、身体の練習でとる形の中で安定していて喜びと共にあることを育成することに努めるのです。もう一方のレベルでは、以前は私たちが知らなかった繋がりと関係を学びます。地球と私たちの関係を癒すことは、私たちの環境を敬い、養成していくという事です。ヨガの練習として「鳥にエサをあげること」をシャロン ギャノンはクラスの中で度々提案しています。それは文字通りに鳥になる、のではなく、ここでいう発想は、私たちは日常の中で他を養成する練習の場を持っているということです。彼女の提案は、私たちが日常という外界を見て、地球上に生きる仲間たちと、この場が共有する以上の利となる場になる事を探すという事でした。私たちは都市が創り出した全ての危害を取り除くことは出来ないかもしれません。しかし、毎日、私たちの周りに居るそういった動物や住まいを失った生物へ献身する事は出来るのです。
私たちの多くが、このエスカレートする気候の危機に直面して抵抗したり失望する感覚になるかもしれません。私たちがそれぞれに分離していると見ている時、私たちはコミュニティの支援や正しい言動を探し求めることはしないかもしれません。私たちの言動が望む結果を産み出すと感じないかもしれません。私たちの文化が一般的に伝えている話でさえ、行動的であることや、変化になる事で、最も重要なのは個人の言動、一人一人なのです。これが変化を起こす何よりも強力なことで、これは、思慮ある多くの人々、活動家、コミュニティの建設者、そして変化を創る人たちと共に、文化的な内容、エコシステムの中で起こるのです。そして文化のシフトを起こす働きかけをします。時には共に働きかけ、時には平行して働きかけるのです。個々の言動は、成長する環境の生産物で、あなたもまた変化を作る事が出来るのです。

和訳:荒木沙実

FOTM 2022 April 
About Asana
アサナについて
  
スティラ スッカム アサナム
「座」とは安定して喜びに満ちたものであるべきだ
ヨガスートラ1:45
  
アサナは渦巻きの吸引力のように、ヨガアサナの実践によって、あなたのなかの親切な心や献身の心、静かな心、その美しさ、自己内省力も、巻き込まれ引き出されてゆきます。アサナのプラクティスを通じて身体を動かし、マインドを調整していくにつれて、同時に私達は献身の心という種を植え付けているのです。ヨガマットの上に立ち返るたびに、その種に栄養を与えて、アサナの身体の動き、呼吸、マインドにあわせながら、土を耕すように自分自身との関係性を深めています。自分の身体に向き合い、身体を本当の意味で感じとるとき、慈しみの心は広がるチャンスを得るのです。十分に自分自身を感じるなら、私達の感受性は高まり、他者の問題にも理解力が深まります。ある一定の長い時間をかけて繰り返しアサナを実戦すれば、他者の話に耳を傾ける力に磨きがかかり、アサナがさらに精錬されることによって、じっくり考え瞑想できるようになります。
  
アサナという言葉の意味には、ヨガの長い伝統を通じての多くのニュアンスがあります。この言葉が使われはじめた頃は、アサナとはあなたの「座位」、つまりプラナヤマや瞑想やチャンティングなどの場面であなたが実践のために選んで座ること、という意味でした。またある時は、あなたが座るときの対象物、つまりヨガマットや芝生のようなものを意味していました。アサナは次第に意味が広がって、より広い範囲での様々な身体の位置・姿勢をも含むようになりました。現代ではアサナとは、ヨガのクラスで多くの身体の動きをまとめて一連の動きに結びつけることという意味で使われているのかもしれません。ジヴァムクティヨガでは、アサナは身体の動きの一つの形式として重要な役割を果たしており、現代的にアップデートされた解釈でその言葉の伝統的な意味を広げています。
  
ではあなたは、どのようにアサナのプラクティスに磨きをかけていきますか?この質問は、ヨガのクラスやワークショップで、シャロン師がその空間に集う練習生達によく聞く質問です。その質問のあとに続くのが、「座」・「座る」とはどんな意味なのかの精査・研究です。「座」・「座る」とは少なくとも二つのものの間に関係性がうまれることを意味します。二つのものとは、つまり座る人と、その人を支えるために座られる(つがなる)対象のもの、です。私達みんなとつながっていて、私達みんなを支えているものって何でしょう?そう、私達が地球と呼んでいる、私達のふるさと/帰る場所、ホーム(home)です。
アサナのプラクティスは、空間を使って自分の身体をどのように動かすか、とか、どのように座るか、何に座るか、だけにとどまるのではなく、もっと大きな全体的なつながり・関係性のクオリティー(質)を高めていくこと、と理解されるべきです。では地球との関係性は安定していて喜びにみちたものでしょうか?
  
ヴィアース・ヒューストン氏は「スティラ」の意味を「安定した」と翻訳しています。何かを安定した状態にするためには、瞬間的にバランスをとるだけでは十分達成できません。たとえば「安定した生態系」と言うとき、それは柔軟で復元力のあるな生態系のことです。「安定した関係性」ならば、それは困難や難題を乗り越えられる関係性のことです。ヴィヤース・ヒューストン氏はさらに「スッカム」の意味を「快適である」と翻訳しています。これも、ただ安定させるために長い時間ひたすら緊張し続けるだけでは達成できません。快適といえるレベルにまで到達しなければならないのです。集中して努力して「座る」場所へとたどり着き、さらに地球との関係性が安定して落ち着いている上に、喜びに満ちたものであり、同時に少なくとも快適であるべきなのです。
  
人類は本当に長い長い年月ずっと地球のことを、自分たちの必要性を満たすためだけに、自分たちのためだけに、与えられているものだと見なしてきました。地球と私達の関係性は、すごくやんわりした表現で言っても、「一方的な」関係性と定義してよいでしょう。ほぼ全ての人類は「欲しいもの」を「欲しいとき」に地球から奪い取っており、だから地球は自分たちのものなんだ、と思い込んできたのです。でもこうしたバランスの悪さ(一方的な関係性・不均衡)が深刻な影響を与えた結果として、地球の環境が内的にも外的にも多くの人々にとって次第に見過ごせない問題となってきています。この世界と私達自身をきちんと大切にしたいという願いはメディアやSNSなど様々なかたちで目にするようになりました。スピリチュアルなプラクティス(霊的な修練・霊性を高める実践)を求める声があるということは、その人が個人的にも、さらに広い世界全体の一部としても、癒しを求めているということでもあるのです。
  
アサナは祝福の賛歌です、アサナ自体が持つ智慧と、私達が生きるこの世界との両方を、喜びたたえているのです。アヒムサ(非暴力)・バクティ(献身)・ディヤーナ(瞑想)・ナーダ(振動・音楽)そしてシャストラ(古代インド哲学の教え)を、マインドとハートに抱いて(つまり「頭」で理解して「心」に刻みながら)身体を動かすとき、アサナのプラクティスはその5つの要素(ジヴァムクティヨガの5つの教義)が出会う場所・合流地点となるでしょう。
(著:ジュールス・フェブレJules Febre)

Jiva FOTM Mar. 2022
Finding Our Foundation
By Jules Febre(和訳:Heeki Park)

「基盤を見つける」
ॐ सत्यं ज्ञानम् आनन्दं ब्रह्मा ॥ 
Satyam Jñanam Ānandam Brahma 
Truth, Knowledge, Bliss, Absolute
真実、知識、至福、完全

ヨガは非常に広い範囲を網羅する言葉です。 それは、最終結果だけでなく実践も表すことができます。 ヒマラヤに由来するヨガの伝統と、新たに認識されて西にもたらされたヨガの伝統があります。 ヨガという言葉は多くの人々によく知られるようになり、おそらく誰かに「あなたはどのタイプのヨガを練習・学んでいますか?」と尋ねたこともあることでしょう。 それぞれが独自の明確な解釈、教え、信念を持つさまざまな方法論があることをある程度理解します。 私たちは 名前と形、相違といった、ナマnamaとルパrupaに満ちた世界に住んでいます。 スピリチュアルな修行により自分を探している場合、相違は特に重要となります。 伝統や方法論に真に没頭する前に、まず非常に単純な一連の質問をして調査する必要があります。私が探しているものとこの方法、又は、この伝統は私の価値観と一致しているのかを。
一見、私たちはみんなそれぞれ違うという事を言う必要はないように思えるかもしれません。 それでもそれは重要であり、さまざまな伝統やリネージ(系統・血統)に反映されています。 それぞれが重要視する問題、儀式や奉仕を強調することに関して微妙な相違があるのかもしれません。 それらの違いが何であるかに応じて、私たちはさまざまな方法論に引き寄せられたり、遠ざけられたりすることできるでしょう。 そもそも何が「スピリチュアルな修行」に私たちを惹きつけましたか? 私たちが達成したいことは何で、私たちは何を探し求めていますか? スピリチュアルな修練は、自分自身で何かがおかしい、または自覚していないと感じているために、私たちに呼びかけることがあります。 私たちは、私たちの周りの世界について教えられてきたコアな概念について深い疑問を経験するかもしれません。 この疑問は、私たちが世界の困難、苦しみ、または一時的な性質を循環するときに、不安定さや不幸を経験する原因となる可能性があります。 かつて私たちの世界に対する基本的な理解がもはや満足のいくものではないことに気づき、そこから霊的な旅が「始まる」ことでしょう。
さまざまなリネージと方法論の違いが重要になります。なぜなら、それらの基盤が私たちのコアな価値、状況、又は望ましい方法と一致しない場合、どのように修練を持続するために必要なモチベーションを得ることができることでしょう。 私たちが尊敬できるカリスマ教師や他の実践者を見つけることができたとしても、その道が私たちにとって正しくない場合、それに影響を与えるために必要な時間を費やすことは不可能でしょう。 私たちはその関係を通して自分が望み、安定し、楽しい繋がりを見つけることができないかもしれません。 各リネージの基盤を探求し、それらを深く調べることで、私たちの基本的な信念への洞察が得られます。 このメソッドは私をどこへ導き、また、どのようにそこへ辿り着くことができるかなどは役に立つ問いかけになります。
たとえば、本来のジヴァムクティJivanmuktihという言葉は、「生きていながら解放された人。 まだ世界で活動していて、他の人からは個人として見られているが、経験の中核としてその独立した自己を持っていない人。」 目的としては、この体が過ぎ去った後や、この体と世界を置き去りにするために修練をするのではなく、私たちが生きている間に超越的な意識を見つけることです。 私たちはこの生涯で悟りを開くことができないかもしれないし、確かに自分自身で設定するには非常に高い目標です。 しかし、主権や解放に向けての過程で、私たちは次第に気づき、親切で、優しく、思いやりのある者になれるかもしれません。
ジバムクティは5つの教義に基づいています。アヒンサー:非暴力、バクティ:献身、ディアナ:瞑想、ナーダ:音、シャーストラ:賢者の教えを学ぶ。 これらを基盤として、多くの実践に応用することができ、芸術的な創造性をこの旅にもたらす事が可能です。 私たちに求められているたった一つのことは、ゴールである「自由」又は「解放」を覚えていることです。 私たちの心は彷徨っても基盤となる教えは私たちをサポートし、連れ戻してくれます。 私たちは時々確認するだけで良いのです。 私たちの行動は、これらの基盤と一致しているか、これらの基盤から来ているのか。 私たちの実践のおかげで、その安定し楽しい性質をより感じているのか? 以前のヨガの修練から欲しかったものが今も欲しいのか? ヨガは私たちに何を求めているのか?